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2010-01-06

ゴミ屋敷、フリーター、そして閉塞する地方都市

小説。読み直したものなどはさておき、最近の作品をメモっておく。

橋本治「巡礼」。「ゴミ屋敷」をめぐる物語。

「ゴミ屋敷」に隣り合わせるという不幸。「ゴミ屋敷」の隣人が抱える行き場のない憤怒と絶望。一人ぽつねんとゴミに埋もれている「ゴミ屋敷」の主たる爺さん。
彼がたどってきた「戦後社会」の変容。それらを含めて、この国の名もない庶民の戦後史が語られる。
この作家、これまでどちらかというと苦手だったのだが、この作品で見直した。

そもそも「日本近代文学」とやらは、この爺さんのような「存在=人生」をまともに直視してこなかったのではないか。それこそ柄谷行人先生のいう「風景」として描き出されることはあっても、「現実」として語られることはなかった。

爺さんの死に際にあたり、その「ゴミのような人生」を最後にほんわりと救い上げて「ジ・エンド」とするあたりに、同時代人としての橋本治の優しさを感じる。橋本治、やっぱり凄い。感服しちゃった。

有川浩「フリーター、家を買う」。現代ニッポンにおけるビルドゥングスロマン。

舞台は東京。就職先から逃げ出し、フリーターと化した青年。苦手なダメ親父と衝突し、うつ病を患う母親を介抱する。バイト先の小さな土木会社に就職し、そのうち正規採用となり、仕事に意欲を感じて、しかもうまいことに素敵な恋人さえゲットしてしまうというサクセスストーリーでもある。

この時代の「成功」とは、たかだか暮らしの安定を得ることなのだ。何とも慎ましい夢ではある。
とはいえ、苦々しい「現実」のなかで苦闘するオレらにしてみれば、先の「巡礼」のように「リアルな現実」を突きつけられるのは、やっぱり辛い。カネ払って、わざわざ嫌なことを読まなくちゃならない理由はない。
ここは、嘘であれ、幻であれ、ともあれ「希望」を語ってほしいのだ。ポストモダン文学たるもの、読者に対して「リアルな効用」をきちんと供給してくれなくちゃ。

小さいことだけれど、印象的なのはフリーター青年の姉(医者の家に嫁いだ恐るべき交渉人)や恋人となる同僚女性(夢の実現のために大企業を辞めてきた東工大卒エリート)の立ち姿。ともに主人公からすると、仰ぎ見る存在として描き出されている。
強靭な存在としての女性。母親=保護者のイメージの投影なのか。あるいは、この社会におけるフェミニズムの浸透の結果なのか。

ともあれ、女性たちに誘われるようにしてフリーター君は、まっとうな市民としての人生を歩み始める。考えてみれば、若い頃のオレもそんなふうだったか。

奥田英朗「無理」。荒廃する地方都市を舞台とする群像劇。

架空の都市は東北あたりに設定されているが、雪が降り続く光景からすると、(オレの住む)北海道だったとしてもおかしくない。

地方が抱える「問題群」をオンパレードで列挙しているから、たとえば、先の「フリーター、家を買う」と同じようにビルドゥングスロマンの視点で眺めることも可能である。

これまでオレらが信じてきたところによれば、田舎の悪ガキもある時期を迎えると(たとえば高校卒業)、それぞれ労働=仕事に勤しむようになり、大人として認められるようになるというものだった。これが地域における市民的成熟の経路というものだった。

ところが、この小説ではこうした「市民的成熟」の道すじがなくなっている地方都市のリアルが暴かれる。
チンピラが労働=仕事を得て意欲を持ち始める。ところが、その職場は詐欺を繰り返す犯罪集団(ブラック企業というのかい)。勤労の意欲は、犯罪集団の悪辣さを増すことにしかつながらないのだ。

これって、世界中の都市のスラムで起きていることである。グローバリズムの魔手に例外はない。嫋やかなる日本列島といえども、その魔手から逃れるわけにはいかないのだ。
シャッター通りの錆びついたシャッターをこじ開けると、そこからはリオデジャネイロやナイロビやニューヨークやムンバイや・・・・・(以下、省略)・・・・・・の荒れた裏通りが垣間見えるような気がする。悲しいことに「世界は一つ」なのだ。

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2010-01-04

伊坂幸太郎の世界を覗いてみる

昔の人は「小説など読んでいると、ろくな人間にならない」といったそうである。その場合の「昔」がいつなのかは問題だが、ともあれ「ろくな人間にならない確率」を高めるようなツールにカネを使うのはよくないことである。

死んだ母親はいっていた。「おまえは生まれつきの無駄使いだね。父さんの遺伝子がよく出ている子なんだから。自戒しなさいよ」

そういうわけで、小説本の類には、なるべくおカネを使わないようにしてきた。そりゃ、若いうちはバカスカと買ってしまったこともあった。だが、愚行、 蛮行をもって「男気に富む」などとバカをいっている時期はとっくに過ぎた。

小説は買わんよ。図書館のオネーサン(ほんとはオバサンだけど、嫌われちゃオシマイだもん)に買ってもらうか、もらった図書カードで買うか、そういうことで読むのである。

伊坂幸太郎という仙台在住の若い作家(おそらく若いんだろうね)は、たいそうな人気作家だとか。雑談や飲み会で「蚊帳の外」に置かれるのもなんだから、何冊か読んでみた。
たまたまなのか、何とも暗いお話ばっかり。この時代が暗いんだからしょうがないか。「マジックリアリズム」っていうの、そういう感じなんだね。









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柄谷行人を読み直す

読んだ本をメモしておく。いつ読んだかもよく記憶しておらず、もちろん中身など覚えておるはずもない。読書とは頭脳の鍛錬にあらずして、眼球の上下左右に動くを確認するにあり。

これで「トランスクリティーク 」を含めて、定本集5冊を読み終えた。
何事であれ、何かを達成することは快いもの。たとえそこに「理解」の一文字がなかったとしても、その労たるやそれなりに報いられるべきではないか。









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