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2009-03-05

不滅の源一郎先生、短めがステキ

忘れてしまいそう。メモしておく。

高橋源一郎「君が代は千代に八千代に」。透明な文体で綴られる短編の数々。短編というと、決まり文句のように「珠玉の」などと枕詞がつくが、さすがにここでは使えない。

何しろ話のなかみが相当にやばい。近親相姦、セックスドール、幼児性愛、数々の殺人、繰り返される暴力、性転換、奇妙な自殺、死後の世界、数学、刑罰、宇宙の果て、退屈、狂気、悪意、詐欺、結婚、思想の首領たち、最後の晩餐、君が代、身体改造・・・・・・ひどい話ばっかり。正常と異常の境界線というか、適応と禁忌の断層というか、そんな「此方/彼方」の境目を面白半分に跨いで遊ぶゲームみたい。文章の清潔感が支えてくれるから、さすがに崖の下に落っこちるようなことはないんだけれどね。

以前に読んだ「性交と恋愛にまつわるいくつかの物語」も同系統の作品集だった。こちらのほうも「ヒトとヒトがつながる」ことをめぐる欲望の目も眩むような多様さ、不思議さ、不気味さ、などなどについて、深く考えさせられる短編が並べられていた。やばい話が基本であるところも、「君が代は千代に八千代に」と同じ。

しかし、どちらの本においても収録作品のそれぞれは、遠い星で繰り広げられる「お伽話」か、あるいはちょっと皮肉な「現代寓話」の類にしか思えない。もちろん「喜劇」のようでもある。

源一郎先生がデビューされてしばらくの間、人々は口を揃えて「『さようなら、ギャングたち』は素晴らしい」といった。だが、へそ曲がりの青年は(オレも青年だったのだ!!)、そうは思わず、「『ジョン・レノン対火星人』のほうが、ずっとずっとステキではないか」と呟いていた。

源一郎先生の長年のファンとして、先生が活躍されている幅広いジャンルについて、こちらの好みを勝手に順番づけさせていただくと、どうやら次のようになりそうだ。

  1. 競馬エッセー
  2. その他もろもろのエッセー
  3. 評論や書評.
  4. 短編小説
  5. 長編小説

評論集「ニッポンの小説」だったかな、その冒頭にコロンビア大学で行った源一郎先生の講演録が載っている。そこで先生は、「自分は良い作家になれない」というようなことを喋っていた(と思う。偉大な作家になれないだったかも。手もとに本がない)。

確かに先生には、「クリエーター=創造主」としての強靭さに欠けるところがある。自分の作品世界にのめり込むときに多くの小説家が示す「忘我の表情」を決して見せない。それって恥ずかしいじゃないか。小説=世界を支配する暴君って気持ち悪いよ。先生の作品からは、絶えずそんなふうな呟きが聞こえてくる。要するに、悲しいほどに批評的なのだ。

そんな事情からなのか、源一郎先生の小説、とりわけ長編作品は複雑ならざるを得ない。本文と注釈が交錯し、事物と比喩がその位置を変える。ときには大きく360度回転して元の位置に戻ったりして、混乱を極める。記述それ自体の相互参照が連続し、自己言及の流れがクネクネと絡む。だが、何となく静的な印象があり、ダイナミズムを欠くようにも感じる。
実験的な面白さはあるけれど、「物語」を受容するという観点からすると、相当に疲れる。要するに、先生の長編小説は(「オレ的」にいえば)、面白くないのだ。

これに対して、短編のほうはずっと楽しい。透き通るように平明な文章をテンポよく読んでいくと、何だか奇妙なスナップ写真を眺めているような、あるいは不思議なことばが連なった小さな詩集をこっそりと盗み読んでいるような、そんな楽しさを味わうことができる。

何年も前のこと。オレも我が同居人も、ともに競馬狂だった頃、清々しい涼風が吹き抜ける夏の札幌競馬場・B指定席で源一郎先生とたまたま隣り合わせになったことを思い出した(ご夫妻で。いまは、とっくにお別れになっているけれど)。
一言、二言、ことばを交わした記憶がある。ただし、「あの馬の体重の増減、知ってる?」といった程度のやり取り以外、話すことはなかった。「小説家の源一郎先生ですよね」などといった野暮なセリフなど、発することさえ忘れていた。いうまでもなく、鉄火場におけるギャンブラーは、互いに「あんたの職業なんですか?」などと喋らないからだ。

でも、いま思うと、握りしめていた「ホースニュース・馬 -wikipedia」に赤ペンでサインしてもらえばよかったかなあ・・・・・「週刊文春」連載のコラム「おじさんは白馬に乗って」を読みながら、ギャンブルの世界から追放された人間は軽い後悔の念に駆られるのだ。



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