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2009-02-27

逝きし世の面影、前近代の幸福と不幸な近代

この本を読むことになったきっかけは、「文藝春秋」か何かの雑誌を立ち読みしていて、あのミスター円、「榊原英資 - Wikipedia」先生が、「私が選ぶ1冊」として推薦していたからだ。なぜか、その短い推薦文は心に残った。

江戸文化を抹殺する格好で開始された明治以降の近代化。それって、この本で描き出された「微笑みに満ちた美しい文明」を壊し続けただけじゃないの? この国の近代化って、何のためだった? 誰のためだった? 榊原先生は、そんなふうに嘆息を漏らしていた。

読み終えて、私も似たような溜息を吐いた。フゥー。

江戸末期から明治初期に日本を訪れた西欧人たちの目に映ったこの国のかたち。著者の「渡辺京二 - Wikipedia」先生は、彼らが残した大量の史料から意図的に「逝きし世=江戸文明」を称える箇所を抜き出し、アンダーラインを引き続ける。
近代化は、ほんとうにこの国を幸せにしたのか。こんなに素晴らしい文明を滅ぼしてまで、何を創り出したというのか。渡辺先生の問いは執拗だ。

輝くばかりに美しい農村の風景。飢餓や貧困といったイメージを裏切る農村や都市の豊かさ。穏やかに微笑む幸せそうな人々。気高く、それでいてユーモアのセンスに優れ、茶目っ気たっぷりの武士や庶民たち。美しく可愛らしい女性たち。子どもや動物に注がれる優しい愛情。元気で好奇心に満ち、しかも躾の行き届いた子どもたち。ヒトを怖がらない犬や野鳥。江戸という庭園都市の特異な素晴らしさ・・・・・・

幸せに生きるということはどういうことなのか? この本にヒントがあるとすれば、たとえば、次のような幸福の条件を考えたりもする。

  • 環境中心主義-何よりも豊かで美しい自然環境に生きること。
  • 反=人間中心主義-人間中心主義という偏った視線にとらわれずに生きること。
  • 反=個人主義-個人という概念を知らず、個人の内面という檻から自由であること。

江戸の文明を典型とする前近代の文明は、「多産多死」型の社会構成の上に築かれていた。たくさん死ぬけれど、その分をせっせと補充する社会。ヒトもまた、野生の動植物の生態と基本的に変わらない生のあり方を繰り返していたのだ。
医療システムなどほとんど不在であり、それゆえに短命が基本である社会では、長寿を支える福祉システムなど基本的に不要だ。
ヒトは群生する魚・鳥・獣のように、「群=類」としての生命を慈しみ、「個」としての不安を軽んじて生きるしかない。自然環境に包まれ、生き物すべてと交感しながら、群=類の一部として、あっけらかんに生まれ、あっけらかんと死ぬのである。

近代に至って、ヒトはあっけらかんな生を見失った。死を前提に、死それ自体を織り込んだシンプルな生は、死を恐れ、死に抗い続ける複雑な生に置き換えられることになる。
それと引き換えに、ヒトは確固たる幸福感も失ってしまった。「群=類」を見失い、「個」として自立することになったヒトは、一方で長寿=引き伸ばされた人生に漠たる不安を感じざるを得ない。
喪失と不安。それらが投影されるスクリーンとしての「内面」の成立。幸せじゃないなあ、オレって・・・・・・と呟きながら、近代に生きるヒトは心の内側をサーチし続ける。

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2009-02-20

できそこないの男たち、詩を奏でる科学者の誕生

誰もが知っている理科的知識。だが、この分子生物学者の手にかかると、途方もなく「楽しい何か」に変じてしまう。
ましてや科学の基礎・基本を欠く身には、一章ごと、一段落ごとに「ヘェー、ハァー」と感心しきりで、ポテトチップスを摘む左手の動きも止まってしまうほどの面白さである。

読み進むにつれて、これまで経験したことのない不思議な「詩情」に包まれていることに気づき、脈絡もなく「楽しい何か」とはこれなのか、と納得したりもする。

不思議な逸話があり、歴史の皮肉としかいいようのないエピソードが列挙される。胸ときめくスリリングなスキャンダルと隣り合わせに、研究者たちを突き動かす野望が配置され、その反対側にラボとアパートを行き来するだけの無名の若き研究者たちの疲れ切った日々が描き出される・・・・・生物学=科学の向こうに広がる壮大にして精妙なポエジー。「生命=生きること」が醸し出す不思議で感動的な情景が広がり始める。

前作「物と無生物のあいだ」にあって、福岡先生は自らの表現が過度に詩的=文学的なものへと流れてしまうのを嫌い、筆使いを抑制していたようだ。しかし、この「できそこないの男たち」では、全開とはいかずとも、相当にアクセルを踏み込んでいる感じがする。

科学の向こうに蜃気楼のように現出する大いなる詩の情景。「生命=生きること」の詩情。壮大な夢の中を探検しているような高揚感の源泉は、ここに由来する。

「詩人=哲学者」とはよく知られているが、「詩人=科学者」というのは聞いたことがない。おそらく、そうしたカテゴリーで括られるべき表現者は多数存在するはず。だが、この国の現在において、そうした種類の表現者を挙げよといわれれば、迷うことなく「福岡伸一」と答えるべきなのだろうと思う。

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2009-02-06

アメリカと世界恐慌2.0、読み終えた新書とか

読み終えた(と記憶している)新書など。手許にあるものとないものがある。ないものについては、落ちているかもしれない。

まずは、猿谷要「物語 アメリカの歴史」。資料を作成する際に「リファレンス」として使った。手ごろなクラシック本というべき。

次に町山智裕「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」。この本を構成するコラムの数々は、話のネタとして最高に役立った。







ものは次いでだとばかりに、越智道雄・町山智裕「オバマ・ショック」にも目を通した。アメリカを硬軟両面から論じて飽きさせない。深層のアメリカ、表層のアメリカ。アメリカ通になった気分になる。







世界恐慌2.0。暗雲立ちこめる世界同時不況。本屋の店頭には、おどろおどろしい表紙の「金融恐慌本」が平積みされている。でも、ここは冷静に水野和夫「金融大崩壊」を読む。あわてて書かれた「恐慌本」のなかでは、(立ち読みの印象でいえば)例外的に視点が大きく、歴史的に問題を捉えているように感じる。







以前に読んだ同じ著者の「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか」のサブセットのようでもあり、論旨の詳細をばっさり切り捨てている分、素人にはすっきりと分かりやすい。「サブセット、万歳!!」なのだ。







次に小幡績「すべての経済はバブルに通じる」。バブル・メカニズムの本質を「資本主義=ねずみ講」論に求めるあたり、何ともスマート。根拠なき熱狂とその崩壊の道筋を語る乾いた口ぶりには、著者自身が「投資家」であることも影響しているのかもしれない。







金融危機を論じた金子勝「閉塞経済」とか本山美彦「金融権力」などに対して、失礼ながらいまいち的を外している印象をもってしまうのは、金子先生も本山先生もマーケットの「汚らしいリアル」とはほど遠いところで「論」を張っておられるからかもしれない。







そもそもリベラル左派の知性に「カネ」は似合わない。似合わないもの、知らないものを論じて「リアリティ」を担保するのは至難の業である。







最後に高橋洋一「この金融政策が日本経済を救う」。「上げ潮派」の理論家による強烈な日銀批判。政治問題化している「埋蔵金問題」とか「政府紙幣の発行」などにも言及していて面白い。
高橋先生の主張通りに、日銀がジャブジャブと通貨量を増やすと、スルスルと景気回復につながるのかというと、それはどうなんだろ? こちらには判断する知識もないけど・・・・・でも、そういわれると「そうなのかなあ」と思ってしまうのが、本というメディアの面白いところ。

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