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2008-11-26

磯崎新の「都庁」、物語の「錯綜体」としての作品

平松剛「磯崎新の『都庁』」を読んだ。彼のデビュー作である「光の教会 安藤忠雄の現場」は、7年ほど前に入院先のベッドの上で読んだ。それ以来の平松作品である。

さて、読み終えての感想は、一言でいえば「ベリーグッド!!」 暗く狭苦しいわが心にも、勇気にも似た気分がちょっぴり広がるような読後感。読書という辛気臭い行為にあって、最も望ましい効用というべき。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したという「光の教会」と同じくらいに素晴らしい。

感じるのは、叙述の構成が前作の「光の教会」とほとんど同じであることだ。前作では教会の設計・施行の進み具合が、物語の全体に確固たる時間感覚を与えていた。同じように、今度の作品でも都庁舎コンペまでの短い日々(3か月だっけ)が、作品内部の時間の流れを明確にしている。

作品を貫く時間=スケジューリングがしっかりと定まれば、あとは自由自在に「話に花を咲かせる」ことが可能になる。話が脇道に入り込み、本筋から遠く離れてしまったとしても、まったく問題ない。しっかりと帰るべき道筋が確保されているからだ。

個々の挿話は、時には物語全体に対する丁寧な注釈であり、場合によっては象徴的な道標となる。「入れ子」のような格好で配置される逸話もある。それぞれが独立した物語として自立して動き出すことも十分に可能であり、それも作品に大きな膨らみを与えているように感じる。

たとえば、磯崎新の人生、その天才、その手法、その苦悩、その夢・・・・・・。あるいは磯崎の師である丹下健三の人生・・・・・・(以下同文)。あるいは丹下の師にして強力なパトロンでもあった東京帝国大学教授・岸田日出刀の人生・・・・・・(以下同文)。

多数の物語が連なる中から、「建築」という形式で明らかにされる1つの大きな物語が突き出される。明治時代から連綿と生成され続けるこの国の権力=支配構造の物語。

物語の断片は「過去」ばかりではなく、作品の時間軸における「現在」にも転がっている。磯崎親分のもとでコンペを戦う「磯崎アトリエ」の子分たちにも、それぞれに語られるべき濃密な物語がある。同じように「ぶっちぎりで、勝とう」と丹下親分に叱咤される「丹下事務所」のスタッフにも、シルクスクリーンの刷り師や模型製作の職人といった名工たちにも、それぞれに多様な物語が準備されている。まさしく物語はリゾーム状に作品を覆い尽くす。

都庁舎コンペの提出した作品において、磯崎新は「錯綜体」という概念を基本に据えたという。リゾームを抱え込む巨大なボックス状の何か。
コンペは丹下健三の勝利に終わり、西新宿にはゴシック様式のような「丹下健三の都庁」が聳え立ち、磯崎新が構想した馬鹿でっかい箱のような恰好の「都庁」はない。それは、シルクスクリーンで描かれたイメージと精巧な200分の1の模型を除けば、文書にまとめられた理念=コンセプトとして残るだけだ。

幻視するほかない「磯崎新の都庁」。平松剛は「物語」という要素を駆使することで、「錯綜体」というコンセプトに触れようとしたのだろうか。勝手な妄想的解釈である。

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2008-11-23

岩波新書、不可能性の時代、現代社会の理論

ずいぶん前になってしまったが、大澤真幸「不可能性の時代」を読んだ。
現物が手もとになく、細部については断片的に思い出すだけだが、印象としては、戦後の日本社会を「理想の時代」、「虚構の時代」と辿り直す前半部分が、とても面白かった。論旨が明瞭で、しかも他の著作から引用される事例やエピソードの類が興味深く、的を射ている。

しかし、後半になり、「不可能性の時代」を論じるあたりから怪しくなる。注意深く文脈を追いかけようにも、いまいちすっきりしない。論理の流れが伏流し、蛇行し、停滞し、多数の支流に分岐して、論旨が不明瞭になってくる。発話に喩えると、吃音のように聴き取りにくい。これは、読むほうの聴力にのみ責任を負わせるべきことなのだろうか?

大澤真幸は、この時代、この社会、そこに生きるオレらを論じて最高、最強の思想家の1人である。その思想家に対して失礼な物言いかもしれないが、短い文章で表現するほどには、「不可能性の時代」の核心を明確に捉え切っていないのではないか? 大澤理論の鍵となる「第三者の審級」を探す旅は、袋小路で出口を見失ったままなのではないか?
あるいは、それらのアレコレを短い文章で論じ尽すことが難しい、と感じているのではないか? そんな疑念を感じてしまった。

いうまでもないが、本来、新書という形式は、専門家に大衆に対する啓蒙の機会を提供するというものだったはず。その意味で、新書としての「不可能性の時代」は成功しているとはいいがたい。

ところで、「理想の時代」、「虚構の時代」という区分を最初に提示したのは、見田宗助である。この社会学者の著書の1つである「現代社会の理論」の初版が出たのは、1996年だった。先の区分でいえば、ちょうど「虚構の時代」が終わるあたりとなる。
「現代社会の理論」を読んだのは、初版が出てすぐの頃だった。大澤の「不可能性の時代」に感じたような不全感はなく、すっきりと「腑に落ちる感覚」を味わったことを思い出した。

10余年を隔てて刊行された2つの「岩波新書」。あえて強引に両者の違いを示す対照表を記すとすれば、1つの時代を振り返って俯瞰できる地平に立って語るか、それとも方向さえ分からぬまま漂流する時代の真っ只中で語るか、の違いなのかもしれない。
そう考えると、見田のクリアな語り口と大澤のモゴモゴと不鮮明に響く声の違いは、語るべき時代に対する立ち位置の差ということになる。当たり前といえばそれまでだが、大澤真幸の格闘は、現在進行中ということなのだろう。

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2008-11-20

藤原新也、日本浄土、シャーマンを包む湿った海風

藤原新也を読んだ。「東京漂流」の衝撃から25年。「藤原新也」とは何か?

光と風景、風と匂い、生き物とその影・・・・・・それらが示す一瞬の揺らぎ。そこに個人や集団の無意識を感知し、消去されかけた記憶の痕跡を見て取る。
「藤原新也」における感応の思想。その表現は近代における表現者=クリエーターが生み出す「作品」の域からはみ出し、何とも説明不能な「ズレ」を抱え込む。それは場合によって、平凡、陳腐、退屈、既知といった反=芸術的価値の印象さえ生み出しかねないものかもしれない。
だが、その作品を読もう(見よう)とする意志を持つ者には、反=価値の印象の向こう岸に、どこにもない宗教の、見たこともない経典をひも解くような気分を味あわせることになる。いってみれば、「藤原新也」は心貧しい我らの時代の導師なのだ。

我らが導師の今度の旅は「印度」でも「西蔵」でもなく、「米国」でもない。のっぺりと均一化した風景が広がるニッポンがその舞台である。人影ばかりか野良猫や鴉の姿もない寂れた港町。島原、天草、門司港、柳井、祝島、尾道、能登、房総。放浪の舞台は、主に西日本のひなびた海辺だ。

日本浄土」。少年時の追想を追いかける旅。シチュエーションがひなびていて、しかも、我らが導師を包み込む海風は暖かく、ぬめるように湿っている。そのせいか、放浪する導師の姿には、どことなく徘徊老人の風情のようなものすら感じられ、その文章もことのほか甘くにじんでいる。

以前から「藤原新也」の作品には特有の甘みがあるが、「日本浄土」ではそれがいっそう強調されている。残念なことに、作品が内包する甘さをもって、鬼の首を取ったように批判する者もいる。常套句が多用されたつまらない大衆的表現と勘違いする輩。「写真は天才だけど、作文のほうは凡才」とコメントした吉本隆明翁のような踏み違いもある。勘違いをする連中はどこにでもいて、ときとして大批評家さえもファンブルするということだ。

いうまでもない。それらのすべての誤りは「藤原新也」をして、近代的表現の枠で語ろうとするところから生じる錯覚である。「藤原新也」を近代における芸術価値のフレームで語ってはいけない。

高度情報資本主義の表層のすぐ裏側に横たわる先史=古代の地層。ことばが捕捉できない自然の感情。ヒトをも包含する生き物すべてを貫くマテリアルな基層・・・・・・我らが導師は、これらのすべての階層に鋭敏に感応する。稀有の能力というべきである。

向こうからやって来る不思議な気配。促されるように「藤原新也」は、カメラのシャッターを切り、画筆を握り、筆を執る。心貧しきポストモダンの時代にも、シャーマンは存在するのである。

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2008-11-17

無限カノン、終わりなき恋愛、欲望の近代的形式

島田雅彦を読んだ。「無限カノン」三部作。「彗星の住人」、「美しい魂」、そして「エトロフの恋」。
いずれかの本の「あとがき」に、この三部作に作家生命を賭けた、といった意味のことが述べられていた。何しろ3冊合計で優に900ページを超える分量である。作家の意気込みがよく分かる。

長大な恋の物語。ごくごく簡単にいえば、「蝶々夫人」の遺児(ベンジャミン・ピンカートン・ジュニア)、その息子(野田蔵人)、その孫(常盤カオル)という3代にわたる一族の稀有な「恋愛遺伝子」のヒストリーである。物語は、明治の「蝶々夫人」の頃から始まり、戦中、戦後の各時期を経て、近未来に至る。壮大である。

この一族に顕著な「恋愛遺伝子」の特徴をまとめ、その運動をトレースしてみる。

  • えらくモテる。「光源氏」みたい。以下の諸点を表象するために不可欠な前提なのだろう。
  • どの世代の恋愛も基本的には成就されない。彼らの恋は、決して満たされることを知らず、例外なく挫折する。
  • なぜか? 恋愛は「自己言及の檻」に幾重にも閉ざされ、終わりのない永遠の運動の形式をとらざるを得ないからだ。恋愛こそは、欲望の最も純粋な近代的表現である。
  • 「恋愛遺伝子」は、日本近代の根幹と対立する。
    たとえば、アメリカ。日本近代を像として浮き立たせる巨大な影。あるいは図に対する地。逆にいえば、日本近代はアメリカという強烈な光源によってつくられた小さな影でしかない。
    たとえば、天皇制。日本近代のナショナリズムが、その核として偽装した農耕民のシャーマニズム。欲望の近代的形式から最も隔てられた悠久不変の形式。
  • 「恋愛遺伝子」はアメリカに傷を負わせ、天皇制を穢す。だが、致死的な返り討ちを浴び、恋は不能化するしかない。孫の代(常盤カオル)で、インポテンツが症状化するのは象徴的だ。
  • 行き場を失い、海岸に漂着するゴミのように漂う「恋愛遺伝子」。アメリカでもなく、日本でもない打ち捨てられた辺境の島(=エトロフ)にたどり着くことで、「恋愛遺伝子」は 新たな形式の可能性を知る。
  • エトロフ。恋愛の終焉。近代=資本主義的な欲望の墓場。欲望は、近代という形式から自由になろうとしているのだ。

恋のアレコレ(原節子みたいな女優が出てきたり、皇太子妃雅子様に似た不二子様が出てきたり)を読んでいると、何の脈絡もなくアメリカ犯罪小説の巨匠、ジェイムズ・エルロイが描き出す「アメリカン・アンダーワールド」三部作を思い浮かべることになった(三部作のうち、「American Tabloid(アメリカン・タブロイド)」と「The Cold Six Thousand(アメリカン・デス・トリップ)」はすでに邦訳されいるが、「Blood's a Rover」はまだ邦訳されていない)。

2つの「三部作」に共通するもの、異なるもの。

  • 現代史を素材としている。
  • 歴史を偽造しようとしている。あるいは逆に、想像力を駆使して「隠蔽された歴史」の暴露に挑む。
  • 島田雅彦「無限カノン」では、「恋愛」の音楽がカウンターテノールの優美な音色となって、渦を描きながら穏やかに流れ続けている。
  • エルロイの「アンダーワールド」のほうは、ひたすらに「カネ」と「暴力」。錆びた鉄と硝煙の臭い。無慈悲な暴力の現場には、血糊がこびりついた100ドル紙幣がばら撒かれる。
  • 形は違っても、終わりなき反復と止めどもない亢進を旨とする欲望の近代的なあり方において、両者は同一の形式を取る。 アメリカは狂っているが、日本もおかしい。
  • ともあれ、「暴力」に狂うよりも「恋愛」に酔い痴れるほうが、迷惑の度合いを考慮すると、絶対に良いと思うけど、どうなんだろ?

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2008-11-06

お待たせしました、小説本の類をお返しします

借りっぱなしになっていた小説本の類を返却する。何年も手もとに置いたままになっていた本もある。ずいぶんと昔に読んだので、いまではぼんやりした印象しか残っていない。ともあれ、ヒサエ様、迷惑をかけました。ごめんなさい。

角田光代の文章は、どういうわけかオジサンの体質に合う。「福袋」に収められた各短編もそれぞれに楽しめた。うまいなあ。

それに比べると、森絵都のリズムは、ちょっとだけ合わない。角田作品とは、ヒロインも、シチュエーションも、とてもよく似ているし、文章だって抜群にうまい。でも、何かが違う。
たとえば、角田作品のなかのヒロインには、オジサンとは世代も違えば、ジェンダーも違うのに、「わかるよなあ、この感じ」といった強烈な「共感」を伴うことが多い。彼女のまなざし、彼女の立ち振る舞い、彼女のことば。だが、残念なことに「いつかパラソルの下で」には、それがない。何が違うのだろうか?

奥田英郎は楽しい。「邪魔」も、「ガール」も、引き込まれるように読んだ。上等な「乗り物」としての物語。でも、どこか表層的。逆にそれが楽しさを振りまくのかもしれない。

小路幸也が描き出す東京の下町。老舗の古本屋「東京バンドワゴン」をめぐる家族とそのまわりの人々の物語。麗しき家族愛。どこまでも優しく包み込んでくれる地域の力。映画でもこういうのあったね。
失われた親密圏を描いて、逆にその大切さを浮き上がらせるシニカルな戦略性が見事。でも、一般的な読者(観客)は、こういう物語で大いに癒されてるわけだ。みんな、疲れているんだね。

40年ほど前、オジサンのオトーサンは夏の盛りに、涼しい北海道からわざわざクソ暑い大阪に出かけていった。「月の石」もやって来た大阪万博。オジサンのオトーサンは暑さと疲労でヘロヘロになりながらも、会場を睥睨する「巨大にして不可解なゲイジュツ」に感動したという。
その「太陽の塔」も、いまでは得体の知れない遺跡と化した。時の流れは恐ろしい。森見登美彦の作品を読み、オジサンはそんなことも思い出した。オジサンのオトーサンも、オカーサンも、3年ほど前に相次いで死んじゃった。
夜は短し歩けよ乙女」は素晴らしい作品である。最近の小説では、町田康「告白」以来のノリノリ、ウキウキの感覚を楽しむことができた。心地よいリズム、そしてユーモアが洒落ている。加えて、黄昏を迎えたニッポンの、背中を丸めて歩き続けるしかない若者たちの悲しみさえも、しっかり伝えてくる。さすが京都(大学)の落ちこぼれ。落ちこぼれ方が上品だ。

ドライブイン蒲生」と「厭世フレーバー」。下流小説、2品。分裂の度合いを深める階層社会・ニッポン。ともに秀作である。伊藤たかみの「リアル」は素晴らしいけれど、この時代のモード(風潮)をも突き抜ける神話的な普遍性まで達しているかとなれば、それはないか。
一方、三羽省吾のほうは、はじめから「そういうお話ではありませんから」と、もっぱら軽快にこの時代のモードを語り続ける。でも、逆に神話的な説話の味を感じるところもあり、オジサンには合うんだよね。なぜだろ?

若い作家の作品をかき集めると、その「甘さ」と「青臭さ」で息が詰まりそうになるから、「Sweet Blue Age」というわけか。「夜は短し歩けよ乙女」も収録されているし、角田作品も、三羽作品も入っている。
でも、なぜか坂本司の「ホテルジューシー」という作品が、妙に記憶に焼きついているのだ。沖縄のぱっとしないホテルでアルバイトする話。特に良いとも思わなかったし、気に入ったわけでもない。でも、この話だけがくっきりと覚えている。なぜだろ?

中野正夫が描く「ゲバルトの時代」。あの時代を最もラディカルに生きようとした若き「都市ゲリラ戦士」による貴重なインサイドストーリー。勇ましい理念としょぼくれた現実の目もくらむような落差が面白い。
現在の視点に立てば、すでに高度情報資本主義が爆走を始めた時代に「革命運動」も「武装闘争」もへったくれもないのは自明の理だろう。だが、そうであっても「革命のようなもの」や「武装ゲリラ闘争ごっこ」に身も心も奪われた若者たちが、シンパシーを感じる層を含めれば何万人もいた(ちょっと大袈裟か)という事実は否定できない。
ラディカルであろうとすることは、それ自体が悲劇なのだ。あらためて、そう思った。

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2008-11-04

四方田犬彦、高校生、師匠、「かわいい」ってか

「四方田犬彦」を3冊、読んだ。

1冊目。1970年前後に高校生だったこと。それは幸福な体験というべきなのか、逆に不幸の穴ぼこに落っこちたというべきなのか。ともあれ懐かしい光景が広がる。
とはいえ、卒業生のほとんどが東大に進む高校というのは、田舎の凡才には特殊な環境に映る。村上龍が描く「69(シクスティナイン) 」の世界のほうが、オレらには似つかわしく、くすぐられる懐古の情も強烈かも。

2冊目。由良君美。著者の師匠である東大の英文学教授。1990年に死亡。享年61。
昔、ジョージ・スタイナーの「脱領域の知性」という本を読んだことがあり、その訳者がこの英文学者だった。知的でスマート、女子学生が憧れるような都会的な大知識人。
だが、晩年はアルコールに溺れ、弟子たちの成長をうまく許容できずに不可解な嫉妬心の虜になったりもした。偶然に出会ったカフェで殴りかかってきた師匠の姿は、著者にとって脳裏に刻まれた陰惨な記憶と化しているだろうな。
いかに分厚い知識の層を形成し得たとしても、人間はその核心において、そうそう変わるものではない。大知識人・由良君美の変調する晩年を覗き見て、そんなふうなことを考えたりもした。だが、同時に、こんなふうに世代間の相克を繰り返しながら、一つの時代は終わりを迎え、次の時代にその席を譲り渡していくのだろうな、とも思った。

3冊目。「かわいい」とは何だ? 世界各地を駆け抜ける著者が解明する「かわいい」現象の数々。それらが通して語りかけてくるこの社会の「神話的言説」のあれこれ。まずは面白く、タメになりました。
「おたく/オタク」を論じて、ポストモダンの思想やら社会構造論やらへと一気に行ってしまう言説とは一線を画す。見方が歴史的で、空間的にもダイナミック。簡単に「モデル」を作らないあたりが憎らしい。
また、アウシュビッツ収容所の洗濯所の壁に描かれたかわいらしいイラストや、映画「グレムリン2」のおぞましい映像を手がかりにして、「かわいいから、いいじゃない」では済まないぞ、とクリティカルな視点も忘れない。このあたりに、グローバルに行動し考える著者の風貌がにじみ出ているように感じる。

ともあれ、この種の新書本の効用の1つは、単純に知らないことを教えてくれることにある。生活や仕事にまったく役に立たない知識ほど楽しいものはない。たとえば、次のようなあたり。

  • 澁澤龍彦はかって、E.T.とは養老院を脱走して孫に会いに来た老人ではないかという仮説を述べたことがあった。今日の核家族にあって忌避されてきた老人が、フロイト的回帰を経てグロテスクな形象として顕現したと考えてみるならば、この評言には深い意味が隠されているように思われる。
  • 「セーラームーン」の物語は、二十世紀最大のアウトサイダー・アーティストとして知られるヘンリー・ダーガーの作品を強く連想させる。

何より「ヘンリー・ダーガー(Henry Darger - Wikipedia)」というアーティスト(というのかね?)には、度肝を抜かれた。著者は、ダーガーが生涯のほとんどを過ごしたシカゴのアパートが取り壊されると聞き、あわてて駆けつけたという。是非とも「ヘンリー・ダーガー論」を書いてほしいな。

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