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2008-10-29

リアルのゆくえ、公共的なるもの、希望のゆくえ

「リアルのゆくえ」。バッグの中に何週間も入ったままだった。数ページ読むとすぐに閉じ、何日か経って「しおり」を挟んだページから再び読み始める。忘れてしまった前後の脈絡。取り戻そうと、数ページ前に戻って読み直してみるが、何だか判然としない。

先週末、ようやく最後のページまでたどり着いた。何しろ読み方が良くない。内容を要約せよといわれても、それは無理というもの。そもそも「おたく/オタク」のすべてが分からない。マンガ、アニメ、ビデオゲーム。どれ1つとして読んだことがなく、眺めたことも、やったこともないのだ。

それでも、大塚英志と東浩紀という当代きっての俊英が繰り出す「ことば」の中から、いくつかの断片を記憶に留めることができたというだけで、大いに感謝しよう。

いま、時代は新たな「啓蒙主義」の様相を呈しつつある。360度ぐるりと回転した恰好で帰ってきた「啓蒙主義」。知識人を尊び、思想家に従え。その「啓蒙主義」が偽装されたものだろうが何だろうが、「蒙を啓かれる」ことを恐れてはいけない。バカと嘲られてヘラヘラ笑っているな。他人より一瞬でも早く蒙を啓け。バカからの離脱。ひょっとすると、カネになるかもしらんぞ。立ち読みした怪しげな自己啓発系の本にも、そう書いてあった。

大塚/東の対談は、2001年から今年に至るまで、4回行われた。副題に「おたく/オタクはどう生きるか」とあり、著者名に「大塚英志 + 東浩紀」とある。しかし、これらの表記は、簡略化の罠にはまっているというべきで、正しくは「おたく/オタクを論じる者にあって、公共的言説の創出は可能か」というようなものであり、著者についても「 + 」ではなく「 vs 」となるべきである。

この手の対談の多くが和気藹々と進行するのを常とするのに対して、大塚/東の言葉のやりとりは凄まじい。とりわけ、大塚の言葉に含まれる「鋭い棘」の痛そうなこと。ときに喧嘩腰の雰囲気さえ湛えていて、なかなかに面白い。その意味で貴重な「対談」の記録というべきである。

両者の対立点を1つあげると、それは「公共性」をめぐる認識の違いだろう。

大塚は、社会を構成する個々人がコミュニケートするなかから、「公共的なるもの」が生まれると信じる。というより、そうした信憑を基礎におかなければ、あらゆる言説は無効なのだと言い切る。その意味で大塚の言説は、たとえ現実のほぼ全域が焦土であったとしても、そこから「希望のかけら」を探し出そうとする試みとなる。大塚英志は希望の思想家なのだ。

これに対して、東は、そうした考え方をロマンチックであると否定する。彼によれば、この時代の個人は、直接的には「公共的なるもの」に接続できない。理由は、個人の存在それ自体が大きく変容してしまっているからだという。

個人は、すでにいくつかのレベルに階層化された構造として存在しており、個人が操作的にかかわることのできるのは、自由な思想・表現が許されるレベル(アプリケーション層)のみである。だが、ここでの言説が社会構成に大きな変化をもたらすことは、ほとんどあり得ない。

社会構成のあり方、個人の社会との関わり方などを含む「公共的なるもの」を決めるのは、社会システムのレベル(物理的な基底層)である。ここには個人からの直接的な関与は禁じられていて、そのためシステムに対する直接的な言及は不可能とされている。

その分かりやすい例として、東は、「セキュリティ」と「ゾーニング」の思想とその具体化をあげている。たとえば、「セキュリティ」の思想にもとづいて、居住域も、メディアも、きっちりと「ゾーニング」されているならば、ある「ゾーン」の中に生きる人々にとって、ある種の問題群はそもそも初めから存在しない。それは「差別」であったり、「表現の規制」だったりの問題である。なぜならば、「ゾーニング」された人々にあって、それは経験することも、眺めることもないからだ。

このように、東は「公共的なるもの」が個々人による協議や合意を根拠に生み出されるという「希望」に疑問を提示する。大塚が「希望の思想家」ならば、東は「希望という詐欺を摘発する検察官」の姿を呈することになる。

これだもの、当然に対談は厳しいものと化さざるを得ない。思想的対立である。だが、そこには思想的な相違・対立以外の何かが、両者の間の摩擦係数を高めていそうな感じもある。雑誌「新現実」を2人で出していたこともあった。つまりは、切れ味鋭い批評の俊英たちにも、日常のアレコレとの格闘があるということを示しているのかもしれない。

そうしたアレコレを内包して進行する思想的対談。ロラン・バルトによれば、このような「内包の形式」を「イデオロギー」と呼ぶというんだけれどなあ。

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2008-10-22

六花文庫、ティファニーで朝食を、現代の女神

自宅からそう離れていない住宅街の一角に「六花文庫」という小さな図書施設がある。図書館というにはちょっと蔵書数が足りないが、建物は内外装ともに洒落ていて、しかも素晴らしいことに訪れる人が少ない。
気に入らないところがあるとすれば、蔵書がすべて「食」に関するものに限られていること。だが、これは不満を持つほうが悪い。何しろ、この文庫のオーナーはお菓子屋さん(「六花亭 - Wikipedia」)であって、あくまで企業活動の一環として文庫の維持・運営を行っているからである。
といっても、本の選択基準は、それほど厳密なものでもない。たとえば書名に「食」の一文字が入っていれば、オッケーというようなところもあるようだ。それゆえ蔵書を眺めていると、「食」にこだわることの苦しさのようなものも感じられ、「いっそのこと、こだわりを捨てれば」といいたくもなる。
でも、そうした「改革」は、あまりに乱暴というもの。「食」こそが、この文庫の拠って立つ理念であり、アイデンティティそのものなのだろう。お菓子屋から「食い物」を取り上げてしまえば、何が残るのか。そういうことなんだろう。

大きな一枚ガラスの向こうから気持ちのいい秋の陽射しが、白木の床に降り注いでいる。「食」の本ばかりの書架からトルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食」を取り出し、読むことにした。オードリー・ヘップバーン主演の映画で分かったようなつもりになり、原作を読んでいなかったのだ。

訳者の村上春樹が記しているように、この小説の読者が苦しいのは、主人公のホリー・ゴライトリーのイメージに、しばしばヘップバーンのイメージがかぶってしまうことにある。確かにいくつかのシーンでは、端麗にして優雅な映画女優の横顔が脳裏に浮かび上がってきたが、映画と原作とでは内容は大きく異なり、あまり映画のことは気にならなかった。

この小説が古典とされるのは、カポーティがホリー・ゴライトリーという女性像を造形し、世界に提示したことにある。カポーティの創り出したこの女性像は、それ以降、国境を超え、表現形式を超え、ありとあらゆるメディアを通じて変奏され続けてきた。名前を変え、存在のディテールを変えて、ホリーは生成と死滅を繰り返す。
大衆消費都市に生きる男たちにとって、ホリー・ゴライトリーは夢の中で出会う女神である。彼らの夢の中で、ホリーは唇を尖らせ、睨みつけ、理由も告げずに命令し、そして幼児のような無垢の笑顔を投げかける。
つまりは、ホリー・ゴライトリーと彼女の物語は、20世紀の消費都市が生んだ神話なのである。

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2008-10-18

ウェークエンド、平野啓一郎「決壊」を読む

本や雑誌を読むのは、週末の土・日曜日だけ。このところ、ずっとそうだ。しかも、ほとんどは土曜日の早朝から昼過ぎまでの時間帯のみ。だが、休日の朝ともなると、なぜかバッカみたいに早く目がさめてしまうのだから、読む時間はかなりあるのだ。

先週、今週と2つの土曜日を使って、平野啓一郎の話題作(なんでしょ?)を読んだ。上と下の二分冊。けっこうな分量だけれど、飽きることはなかった。

本なんか読んでいられねぇよ、ましてや長ったらしい小説だなんて・・・・・・という時代である。飽きさせないというだけで、Good Job!! というべきだろう。

アクチュアルな話題をたっぷりと詰め込み、そこに「人間という悪意」だの、「社会における罪と罰」だの、「犯罪責任とその赦し」だの、といった大いなる問題群にも言及する。何とも欲ばりな平野啓一郎。ミステリー仕立てにするあたりも憎い。

でもなあ、この作家の文章は、ちょっぴり疲れる。あまり楽しく感じない。風景描写などでも、イメージがスカッと喚起されない。頭の弱い身には、意味不明に感じるところさえある。どうしてなんだろう? 

作家が多様なレベルで文章に散りばめる「喩」の形が、どうもピッタリこない感じがする。多くの「喩」が美しいものと思えないし、こちらの内側に染み入るような浸透力にも欠ける気がする。要するに、気に入らないということなのだろうが。

しかし、逆にいえば、この不適合感には、こちらの凝り固まった「喩=ことば」の体系を禍々しくも破壊する「新しきもの」の到来という意味が宿っているのかもしれない。何しろ平野啓一郎という作家は、1975年生まれなのだ。

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2008-10-14

返ってきたナベツネ、ノナカ、コイズミ、アベシンゾー、アメリカ

職場の同僚から青いビニール袋を手渡され、「サンキューね」と言われた。
何だろう? 袋のなかを覗くと、ずっと以前に貸していた本が5冊か入っていた。そういえば、読んだよな、こういう本。

この国を代表するジャーナリスト、魚住昭のお仕事。「権力」に魅入られ、「権力」を追い求め、「権力」に人生を消費された昭和の男たち。エゴイなあ、オッサンたち。どうにも好きになれない印象のナベツネさん、ノナカさんだが、これらの本を読んでちょっと好きになったし、人生の先輩として尊敬する気にもなった。

返却された本とは関係ないけど、メディアと権力ということでいえば、こっちの本も面白かった。
鹿内信隆とフジサンケイグループ。 戦後のドサクサで成り上がったオッサン。その彼がこしらえた巧妙な仕掛けとしてのフジサンケイグループ。
その巧妙さの無理が祟ったのか、やがてメディア帝国は、内紛、下克上、乗っ取りなどなどのテンヤワンヤに見舞われることになる。 呪われたメディア帝国の顛末記。

上杉隆の作品も貸していたんだな。どちらも面白いが、「官邸崩壊」のほうは、ベストセラーになった。
それまで絶対に辞めないといっていたくせに、突如として「ぼく、お腹痛くなっちゃった」とか言い出して辞任してしまった元首相。何にも国民の役には立たなかった最悪の宰相だったけれど、この本の売り上げには、大いに貢献したかも。

権力の広報機関みたいなこの国のマス・メ ディア。そこに巣食う連中から執拗な「イジメ」を受けざるを得ないフリージャーナリスト。海外メディアのジャーナリストたちも同じらしい。
でも、優秀なジャーナリストは、そんな「イジメ」も見事な取材力をもって、ギャフンと封じてしまう。「イジメ」る奴らってのは、つまりは「フェアな競争」が怖いから、「イジメ」るんだね。
魚住昭と同様、上杉隆もこの国が生んだ数少ない威勢の良い本物のジャーナリスト。まだ若いのにスゴイよ。

そういえば、新聞社やテレビ局から受ける「イジメ」の数々については、この新書本に詳しく記されている。彼がジャーナリストとしての基礎基本を教わった「ニューヨークタイムズ」の編集ポリシーなども分かりやすく書かれている。

貸した本の5冊目は、アメリカ民主党の選挙スタッフを務めていたという人のアメリカ解剖記。
リベラルとコンサバの違い、それらの成立史などなどがよく分かって、タメになる。
「保守になりたい!」と叫んで、クワーズビールを飲み、ストックカーレースを見物し、脂っこいビーフを頬張ったりした「白人リベラルのジャーナリスト」の話には笑ってしまった。アメリカ社会の根っこの部分を教えてくれる良い本。

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2008-10-09

元エコノミスト編集長、わが国を代表するブロッガー

週末の朝、布団の中で読み流した本。
アジア三国志」のほうは、読み終えるのに数か月もかかったのではないか。
この本の著者ビル・エモット氏(「Bill Emmott」)は、「Economist」の元編集長。
原題は「Rivals」。日本、中国、インドのアジア3国のかかわり合いを過去、現在、未来を通して俯瞰する。おっきな視点で広大な領域を手際よく語る。わが国にもコラムニストを気どっている朝日新聞の記者などがいるが、とても相手にならない。
ジャーナリストというのは、こういう仕事をする人だと教えてくれる。

一方、「ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書 543)」のほうは、わが国の代表的ブロッガー(とされているらしい)、池田信夫氏の新著。
ケインズの「一般理論」を最後まできちんと読んだ人がほとんどいないように、ハイエクの著作を読んだという人にもお目にかかったことがない。もちろん、経済学のエキスパート以外で、という意味だけれども。

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