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2008-01-03

レヴィナス師、マラソン作家、諜報の世界・・・

ひまつぶしのために目を通した本をメモしておこう。

  1. 他者と死者―ラカンによるレヴィナス」 内田 樹 著
  2. 走ることについて語るときに僕の語ること」 村上 春樹 著
  3. インテリジェンス人間論」 佐藤 優 著

1は、内田先生の「師」たるレヴィナスの思想を論じたもの。ラカンもまたもう1人の「師」とされているが、こちらのほうはレヴィナスを語るための補助線という感じ。本来、「師」というのは唯一無比の存在だ。先生の理説が示すところもそうだったはず。
先生の多くの著作に親しんでいる身からすると、この本には慣れ親しんだ「ディスクール」がいっぱい詰まっていて(「沓を落とす師」の話、「村上春樹のうなぎ説」のこと、などなど)、何となく分かったような気になる。
結局、「読書が楽しい」、あるいは「楽しい読書」という場合、そこにはそうした感覚が含まれているのだろう。瞬間的にではあれ「分かる自分」が立ち上がってくる感覚。内田先生の本には、こうした感覚を強化する仕掛けが備わる。広く読まれる理由は、おそらくここらへんにある。
そういえば、この本の語るところは「私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)」と重なり合っている。こっちを読んでから、「私家版・ユダヤ文化論」を読むべきだったかもしれない。読書に限ったことではないが、より多くの楽しみ(快楽)を得るためには、正しい順番というものがある。

2は、村上春樹氏の「余はいかにしてマラソン作家となりしか」である。酷暑のギリシャを走り、ボストン、ニューヨークなどのマラソンを走る。そのためのトレーニングとして、作家は月200~300Kmもの距離を走り続ける。トライアスロンにも手を拡げるのだ。
ランニング愛好者からすると、不思議でも何でもないのだろう。だが、1日の歩行距離1Km未満というような身からすると、「コイツら、どこかオカシイのではないか」と感じてしまう。
「歩きもしないヒト」と「走るヒト」は、まるで違う存在である。この2種類の生物が同じ惑星の上で、まったく異なる「生のイメージ」を抱きつつ同居しているのだ。走る作家のエッセーは、このことを明確に示す。歩きもしないヒトの感想である。

3は、「外務省のラスプーチン」が雑誌「新潮45」(だったかな?)を中心に書いた文章を集めたもの。諜報の世界のあれやこれやといった面白いエピソードがずらりと並び、飽きることがない。 ちょっとした空き時間に「1エッセー」を読み終えることができ、気が付くと最後のページをめくっている。何とも効率的な「エクリチュール」の消費である。
そのせいか、数日経ってみると、何一つ内容を記憶していないことに気づく。頭の悪い人間は、何をするにしても苦労しなければ身につかないのだ。

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