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2006-06-28

曖昧な期待、無邪気な世界観、それでも人生はつづく・・・

頭の芯に生温かい気味の悪いものが詰まっている感じがする。鈍い痛み。全身が微熱を帯びたようにだるい。遂行すべき事柄の多くは、手を着けられないまま溜まりに溜まっている。仕方がないので、先の週末にはこっそり職場に出かけてサービス残業をする羽目になったほどだ。

原因ははっきりしている。ワールドカップである。4年ごとに到来するフットボール好きにとっての受難の季節。大会は決勝トーナメントに入り、佳境を迎えている。いまも目の前のテレビ=スクリーンでは「スペイン-フランス」の激闘のライブ映像が流れている(ビエラの追加点。スペインは終わったな)。オレは4時から起きているのだ。

いまさら、ジーコ=ジャパンでもないのかもしれない。終わったことは終わったこと。日本協会の川渕会長のように、「次、いこう」とばかりに「前を向いて」対処すべきなのかもしれない。 だが、ほんとうにそうか。「前を向く」前にやるべきことはないのか。いったんボールを後方に預けて、息を整えて自分たちが何をしようとしているのか、どんなフォーメーションでボールを前に進めようとしているのか、じっくりと考えるべきではないのか。

先週末、ほとんど人気のない職場でシコシコとサービス残業した際、たまたまデスクの上に「北海道新聞」が放り出されていた。ぱらぱらとめくると、ワールドカップにおけるジーコ・ジャパンの敗退をテーマにした村上龍のエッセーが載っていて、興味深く読んだ。

ワールドカップ取材のためにドイツに滞在している村上氏は、新緑に映えるドイツの森の美しさに触れた後、深夜に車で深い森の中を走り抜けた体験を次のように語る。

深い森は夜になるとまったく佇まいを変える。黒くシルエットになって風に揺れる樹々は何か異様なものが潜んでいるかのような不気味な雰囲気がある。だが、森が変化したわけではない。わたしの「想像力」が森の中に不気味さを発見したのだ。

「ブラジルにいいように翻弄されて結局1-4というスコアで敗れ」たことをスタジアムで確認した後、村上氏は言う。

わたしたちは日本代表に関して、「夜の森」を意識していなかったような気がする。つまり想像力を殺して、日本の真の実力を把握することなく、曖昧な期待を持ち続けた。世界における正確な位置づけを怠り、想像力による批判を封じ込めたことが、ジーコの不可解な戦術と選手起用につながり、結果的にW杯で「何もできずに」終わった。

日本は実力を出せず終わったわけではない。わたしは選手たちは力を出し切ったと思う。最終戦になってやっと先発した巻は、恩師オシムに鍛えられた運動量を示した。すべての対戦相手が格上のW杯本戦では、もっとディフェンシブな選手を使うべきだったのだが、ジーコは選手の固定化にこだわったし、それをきちんと批判するメディアはほとんどなかった。

日本は負けるべくして負けたのだ。孤軍奮闘し、最後はピッチに寝ころんで起き上がろうとしなかった中田英の姿が痛々しかった。(北海道新聞-6月24日朝刊 村上龍'S EYE「曖昧な期待」)

この短いエッセーを読み、その通りだなと思った。実をいうと、「村上龍」作品の大ファンであるオレではあるが、彼の書くエッセーはほとんど読まない。つまらないからだ。だが、例外はある。フットボールをテーマにした彼の文章は面白いのである。この作家は、ほんとうにフットボールが好きなのだろう。「フィジカル・インテンシティ」と題されたエッセー=シリーズを読むと、愛情だけではなくフットボールに対する造詣の深さもまた格別のものがあることが分かる。この短い文章においても、「ジーコ=ジャパン」の4年間の意味を巧みに、しかも端的に表現している。それが「曖昧な期待」というフレーズだ。

予選組1分2敗というジーコ=ジャパンの結末は、この国における「サッカーの専門家」と称する人々と彼らの言説に影響された無邪気な「日本代表サポーター」がようやく直面したリアルな現実である。風船のように膨らんだ「曖昧な期待」がドイツのピッチでパチンと破裂したのだ。これもまたある種の小さなバブルの崩壊なのかもしれない。そう考えると、「曖昧な期待」とはフットボールという小さな世界に発生した「バブル的なるもの」の別名である。この国に宿痾のように取り憑いた「バブル的なるもの」。それが思いもよらないところで顔を出したのだ。

「ジーコ=バブル」とでもよぶべき「曖昧な期待」が膨らんでいった背景に思いをめぐらしてみる。すると、そこにはオレらの社会が抱える構造的欠陥の1つがほの見えてくる感じがする。ジーコという権威に「曖昧な期待」を寄せて安易な自己救済をはかろうとした人々。権威の影に隠れることによって、組織内外への「弁明」の機会とした日本サッカー協会の「幹部」たち。そして、ジーコという権威に「曖昧な期待」を寄せる「フットボールという事理」に疎い「大衆」(野球の国、ニッポンだもん)。そんな彼らにおもねるばかりだったほとんどの「サッカー=ジャーナリスト」たち。バブルが生まれる機制は、どのような分野においても同じようなものだ。

ブラジル戦の完敗直後に書かれた宇都宮徹壱氏の文章「仇となった無邪気な世界観」もまた、(オレのいう)「ジーコ=バブル」とその無惨な結末について語っている。

もちろん1-4というスコアも、確かに屈辱的ではあった。だが、それ以上に見ていて情けなく感じられたのが、ファイナルスコアになってからのブラジルのパス回しである。「そろそろ疲れてきたから、パス回しでもして時間をつぶそうか」とばかりに、フィールドプレーヤー10人が、ほとんど遊び感覚でパスを回し続ける。その周囲で、日本の選手が懸命にプレスをかけても、ものの見事にかわされる。そのたびに、カナリア色に染まったスタンドから「オーレ! オーレ!」の大合唱。ほとんど子供扱いである。

これが現実であった。そして、これが世界との差であった。この4年間、私たちはあまりにも世界というものを、あまりにも甘く、無邪気にとらえていた。そのツケを一気に支払うことになったのが、このブラジル戦だったのである。

ジーコ・ジャパンの一番の失敗――それは、世界との距離感や、パースペクティブ(見通し)が誤って認識されていたことにあったのではないか。思えば、コンフェデレーションズカップでのブラジル戦でのドロー、あるいはアウエーでチェコやイングランドに善戦したことによって、それまでのアジアでの苦戦や失態がすっかり覆い隠されてしまった。と同時に、世界との差を見誤ってしまった日本は、そこからほとんど検証も軌道修正もしないまま、ドイツに赴くことになってしまったのである。

あえて言わせていただく。今回の代表は、あまりに甘い見通しで戦争を仕掛け、そして打ちのめされ、苦い敗戦を味わったかつての祖国の姿とかなりの部分で重なって見えてしまうのである。そして戦いが終わった今、そこに残されたのは焦土ばかり。(仇となった“無邪気な世界観”

有象無象の「サッカー評論家」のなかで、宇都宮氏は信頼できる数少ないフットボール=ジャーナリストである。この文章についても、「まったくその通り」としか言いようがない。ちなみに宇都宮氏は同じコラム=シリーズのなかで、次期代表監督に関わる川渕会長の「失言」を鋭く批判している。これもまた「まったくその通り」としか言いようがないのだ。

最後に、日本から飛び込んできた代表関連のニュースについて、どうしても言及しておきたい。言うまでもなく、チームとともに帰国した川淵キャプテンの「あ、オシムって言ってしまった」発言に関してである。スポーツナビに掲載されていた会見の内容を読んで、私は川淵キャプテンのこの発言に猛烈な違和感と失望感を覚えた。もっとも、あくまで2次情報なので、ここでは以下の3点に集約して、この「失言」の問題点を指摘しておく。

まず「失言」が意図的ではなかったと仮定する。次期代表監督という、協会人事の中でも最も神経を使わなければならない機密事項を、このような場で「失言」するというのは、常識的に考えれば大失態である。少なくとも、年間数十億の予算を持つ組織の長がすることとは、およそ思えない。当のオシムも、こうした守秘義務が守れない組織で仕事をすることに、少なからずの危機感を覚えるだろう。

では「失言」が意図的だったと仮定しよう。すると、なぜ、今このタイミングなのかという疑念が浮上してくる。そうなると、あらゆる状況をかんがみて、今大会の惨敗という現実からファンの関心をそらすため、と判断されても仕方がないだろう。そこで「世界のオシム」がダシにされたのでは、たまったものではない。ジーコの後任がオシムであれ、ほかの人間であれ、まずは今大会の総括と反省が何よりも優先されるべきである。

そして「失言」が意図的か否か以前に、ジェフ千葉のクラブ関係者、選手、そして何よりもサポーターの心情というものを、あまりにも無視した発言であったことが、私にはどうにも納得できない。彼らがこの3年半の間、どんな思いでオシムとともに戦い、どれだけ苦しみと喜びを分かち合ってきたか――ジェフのサポーターではない私でも、それなりの理解と想像はできる。そうした大切な思い出を踏みにじるかのような今回の「失言」を、少なくともジェフのゴール裏の住人たちは、決して許すことはないだろう。

果たして「失言」の真意はどこにあったのか。いずれにせよ、何とも暗澹(あんたん)とさせられるニュースである。(偉大なチームと肩を並べたドイツ

つまらない文章を書いているうちに、ジダンの3点目でフランスはスペインを蹴り落としてしまった。やっぱり、スペインは勝てない。98年フランス大会で敗退した当時のスペイン代表監督クレメンテ氏は「それでも人生はつづく」と何とも深淵な敗戦の辞を述べた。アラゴネス現スペイン代表監督はワールドカップの舞台から去るにあたって、どのようなコメントを発するのか。興味はつきない。

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2006-06-14

1979年の、ベジタブルな彼女、南へ・・・

いつものツケがまわってきた。仕事に追いまくられ、ヒィーヒィーとヒレンジャク(わかる? 渡り鳥)のように泣きながらキーボードを叩いている。先ほど1つ(の仕事)だけやっつけた。あさってまでにもう1つ。ああ、絶望的・・・。

こんなメモをつくっているヒマはないのだ。だけど、忘れちゃいそうだから、メモっておく。先のウィークエンドに読み終えた本のリスト。

1の「同時代も歴史である」には9つの文章が収録されている。2003~2004年にかけて雑誌「諸君!」に断続的に連載されたもの。このうち「いま何故、洗脳テロリスト物語か?」と「『軽い帝国』が行使する『まだましな悪』」という2つの文章は雑誌掲載時に読了済み(「小さなメモ帳: スーパーの本屋、坪内祐三、軽い帝国・・・」)。

9つの文章のめざすところは、「現代史」にもなり切れない「すぐそこの歴史」をすくい取ろうとする試み。数年前の「一九七二―『はじまりのおわり』と『おわりのはじまり』」が「1972年」という年をターゲットとする「歴史の考察」だったのに対して、この本が対象とするのは「いま」の文章や映像。そこから遡及的に「すぐそこの歴史」を考えようぜという仕掛けになっている。坪内祐三という批評家は本質的に歴史家である。

1970~80年代に植草甚一あたりがジャズやミステリー小説などサブカルチャー分野で行ったやり口を政治=思想的な領域にまで拡大適用しようとするのが坪内流の批評=方法論。何とも気宇壮大。だが、そこには魅力と同時に限界(のようなもの)も感じる。時代が醸し出す微細なさざ波に感応できる鋭敏な歴史センスはまことにお見事。でも、政治的言説として提出されたはずのコトバには、なぜか陳腐な感じがつきまとう。「トリビアリズム」と嘲笑うべきではないが、何のために歴史か?という疑問も生まれてくる。9つの文章のなかでは、先に示した2つが面白い。

2、3、4は借りたままになっていた小説。どの小説も話題になったはず(だから借りたんだけれど)。

2の「サウス・バウンド」は左翼ラジカルだった父と母の間に生まれた小学6年の男の子が主人公。あれやこれやがあって、両親とともに東京から西表島へお引っ越し。ラジカルなお父さんは身体がでっかくて、血の気が多くて、どこでもトラブルを起こしてタイヘンだけど、やっぱし立派なオトーサン。正義の通らない時代だもんね、立派であることも「コメディ」になっちまう。

思うに、80年代以降の小説世界(娯楽小説が中心だよ)には、60年代あたりの左翼ラジカル(ゼンキョートー)をして「強靱な身体に恵まれた驚くべき行動家」として描き出すパターン(=語法)が存在する。良きにつけ悪しきにつけ「帰ってきた怪物」といったところ。ちょっと笑っちゃうよね。いつの時代であれ、そんなヤツって「サヨク」になりそうもないけどな。でも、この小説はとっても楽しい。読んでいてハッピーになれる。

3の「ベジタブルハイツ物語」は現代ニッポンの都市風景をスケッチしたものとして秀逸。ステレオタイプを描いて、それでいてリアル。アパートの大家さん一家のあれこれとアパートの住人たちのあれこれがちょっとだけ交叉しながらも、基本的にはパラレルに描き出される。サッサと読めちゃうあたりも好ましい。

4の「対岸の彼女」は映画の原作にもなった角田光代作品。光代ちゃん、大好き。昔々たまたま「カップリング・ノー・チューニング」という作品に出会ってから、ずっと大ファン。

「対岸の彼女」では2つの物語が並行して語られる。高校生の「葵」さんと「ナナコ」さんのお話が1つめ。35歳(だったかな)の「小夜子」さんと「葵」さんのお話が2つめ。これらが2層の物語になって、深く静かに展開していく。1つめのお話のナレーターは「葵」さん。2つめは「小夜子」さん。2つの物語は「葵」さんという存在を蝶番のようにしてつながり、大きく羽根を広げるのだ。

グッとくるセリフ、ジワッと効いてくる光景。読みながら、いちばん身近にいて、いちばん大切な女性労働者=わが同居人のこととか、いろいろ考えちゃった。

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2006-06-07

Slipped disk、村上ファンド、ヒルズ族・・・

先週の後半から腰の具合がよろしくない。椅子から立ち上がろうとするたびに、腰の中心部に致命的な「ずれ」が生じている感じがつきまとう。同僚であるアングロサクソンのご婦人に「腰、ヤバイです」というと、「アナタのソレって、英語では<Slipped disk>と言います」とのこと。なるほど、言いえて妙だ。

「村上ファンド」代表の村上世彰氏が逮捕された。村上氏は逮捕に先立ち、証券取引法違反(インサイダー取引)容疑を認める記者会見を行った。犯罪容疑を自認するにあたって大勢の報道陣を集めて「記者会見」を開くというのも異例ならば、「容疑を認めた被疑者」の饒舌きわまりない「明るい語り口」というのも聞いたことがない。何とも奇妙な感じのする会見だった。

少し前になるが、「ヒルズ黙示録―検証・ライブドア」という本を読んだ。 この本には、ライブドアの堀江貴文氏がニッポン放送株を大量取得するに至った経緯が描かれている。それによると、きっかけは村上氏からの「誘い」とある。楽天の三木谷浩史氏がテレビ放送との事業統合に乗り出そうとして、TBS株の買い占めを計るきっかけとなったのも、村上氏からの「アドバイス」だったようだ。

当時、それらの株を大量保有していた「村上ファンド」は、保有株を高値で売り抜くための「出口(=株式用語でいうExit)」を探していたらしい。そこで村上氏が目につけたのが、同じヒルズ族の堀江氏や三木谷氏。彼らを「出口」にして、ニッポン放送やTBSの株を高値で売り抜けたのだ。

このたびの村上氏に対する容疑の大筋はこの本に記載されている通りのようだ。えらいぞ、「アエラ」記者、大鹿くん!!

ジャーナリズムの神髄は権力の鼻先を走り抜けるあたりにある。そう考えると「ヒルズ黙示録」はなかなかに良い本というべきなんだろう。

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