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2005-12-30

歳の尾、新聞、大きく思索しちゃう・・・

2005年も明日の大晦日を残すばかりとなった。歳の尾ともなると、オレのような思慮浅き人間においてさえ、「この社会のあり方を振りかえりつつ、その行く末を見すえる」といった生硬な思索にとらわれたりもする。

日々のなりわりにかまけてこの種の事柄には「まあね・・・オレらがどうこういってもねぇ・・・」と身をかわすはずのオレら。柄にもなく「大きな思索」に浸ることになるのは、端的にいえば年末年始の休みでヒマだからだ。古代ギリシアに遡るまでもなく、ヒマこそは深い内省や強靱な思想の培地。豊穣な芸術の母胎でもあるな。

もちろん、休みどころではない方々が大勢いらっしゃることは承知している。おせち料理の材料を売り込もうと大声を発しておられる店頭の方々、持て余すヒマをビデオ鑑賞で過ごそうとする人々をお相手とする接遇業務に邁進されているレンタルショップの方々、この時期こそシステム構築の最大のチャンスと不眠不休でキーボードを叩いていらっしゃるIT方面の方々、消防、警察、病院、交通、電力・ガスなどなどのサービス供給に携わる方々・・・etc.・・・

休むことのできない方々が増えつづけていることは、いってみればこの国の消費=情報資本主義が年末年始というお休み期間(時間)さえも、「新たな消費のフロンティア」ととらえ直したことの結果だろう。就業構造的にいえば、「年末年始だからといって休業しないサービス産業」に多くの労働者がぶら下がるということでもある。

これらの方々に対して、この時期に「大いなる思索」を要求するのはまことに忍びない。となると、これらの方々(おそらくはこの国の就業人口の過半を占める人々)は、いつどこで「思索」されるのか。「思索? 考えること?・・・しねぇーよ、そんな気持ち悪いこと」・・・そうですか、スンマセンでした。皆さんになりかわって、ワタクシが思索してあげます、ご安心を(困ったヤツだと大いにぼやいてください)。

ところで、年末年始に少しでも楽をしたいのはメディア関係の方々も同様だろう。したがって、この時期に向けてあらかじめ「特別プログラム」を用意しておくのは、新聞、テレビなどなど媒体の違いを越えて無理からぬところである。

今日の朝日新聞を開くと、「時流自論-2005年の予感」という特集が掲載されていた。昨日(29日)と今日(30日)の2回にわたって掲載されたこの特集には各界各層の論者が、それぞれの専門分野を中心に今年を振り返りつつ、10年後を展望するという趣旨の短いエッセーを寄せている。

気になったエッセーを引用しておく(コツコツと書き写す。ヒマなんだよ)。まずは、小泉=自民党の圧勝に終わった総選挙についてだ。

9・11総選挙-「大政治」の時代が来る
北川 正恭(21世紀臨調代表、早大大学院教授)
9・11総選挙は、日本の政治がこれまでの「小政治」から「大政治」へと転換していくことを予感させた。
産業革命によって形成された近代日本のシステムが崩壊し始めている。それは中央集権と情報非公開を特徴とし、戦後も存続してきたが、いまIT(情報技術)社会化によって法、制度、民主主義、文化がすべてつくり直しを迫られている。まさに文明史的転換点だ。
官僚主導の予定調和的な「小政治」はもはや通用しない。トップリーダーの非日常の発想、非日常の決断に基づく「大政治」が求められている。新たな価値、新たな国家理念を明確に描いて国民に提示する。それのが本当の意味のマニフェスト政治であり、総選挙は極めて不十分だとはいえ、その芽吹きだった。
大構想の競い合いを通じた政治の兆しは、政権交代の予感ももたらした。民主党は悲観しなくていい。政権交代なくして21世紀はない。(2005/12/29時流自論「2005年の予感(上)」)

9・11総選挙-「幻想政治」の時代に
カレン=ヴァン=ウォルフレン(ジャーナリスト)
小泉首相がまさに力ずくで実施した総選挙。あの日本の「9・11」こそ、向こう10年の日本の運命に影響を及ぼし続けよう。
総選挙では、有権者にとって何が一番大事な課題かという選択肢がねじ曲げられた。膨大な郵便貯金をどうするかなんて有権者が決められる問題ではない。郵貯システムは「第二の予算」と呼ばれる財政投融資を支えているが、財投は政治家が管理できるようなものではない。
メディアと大衆は大した策略にだまされ、真の野党の成長は、おそらく永遠に阻まれることになった。「幻想政治」というものが導入され、国民の関心は、もっともらしい見せかけの課題に向けられる。そして世界にとっても日本にとっても重要な問題はそらされる。
21世紀。日本が後ろ盾としてきた米国はその世界の現実に向き合おうとしなくなっている。それは日本にとって新たな危険をもたらしかねない。日本人はそうした事実に気づくべきだ。(2005/12/30 時流自論「2005年の予感(下)」)
前者(北川さん)のように楽観的になれないな。この10年余の流れを思えば、否応なしに後者(ウォルフレンさん)の下線部分を凝視することになる。「真の野党の成長は、おそらく永遠に阻まれることになった」・・・なるほど。つまりは絶望的ならざるを得ないということだ。

2つ目は、この国の社会のあり方にかかわる3つのエッセー。

郵政民営化-民間が主導する日本に
御手洗 冨士雄(キャノン社長)
郵政民営化は、日本経済が官主導から民間主導に移る方向性を示したと思う。民間に潤沢な資金がなかった戦後の日本には官業に依存する事情があった。しかし、10年以上前から官業は役割を終え、非効率さが指摘されてきた。それでも既得権に阻まれて、官から民への転換は容易に進まなかった。小泉首相が郵政改革を訴えた総選挙で自民党が圧勝したことは、国民がこの既得権の擁護に異を唱えたと解するべきだ。
民間主導経済では競争が行われ、「平等」に変わって「公正さ」が価値基準となる。競争の結果、格差も生じる。敗者復活の余地を含めてセーフティーネットは必要になるが、そのためにも国民経済というパイは大きくなければならず、経済の効率化は避けられない。併せてどの程度の格差なら社会的に受容できるのか考えることも課題になるはずだ。小さな政府と効率的な経済という将来図を描く地点に今、我々はさしかかっている。(2005/12/29時流自論「2005年の予感(上)」)

下流社会-笑いのない警察国家
金森 修(東京大学院教授)
三浦展の「下流社会」が売れている。「かまやつ女」ふうの、人間類型の描写が面白い。だが、それだけなら社会風俗本にとどまるだけだ。気になるのは、三浦さんが社会階層の格差拡大を加速させているのは個人の意欲やコミュニケーション力とするところだ。下流社会にいる人は積極性がなく、人と満足なコミュニケーションもとれないというような分析がなされるとき、それは「当人の責任」とみなされても仕方なくなる。社会問題が、半ば心理学化され、個人化される。システムへの批判力が霧消する。
救われるのは、この本にあるユーモアだ。読者も一種の擬似的な鏡をつくり上げ、自分が下流と思う人は笑い飛ばし、上流だと思う人は肩をすくめているのだろうか。
だが、例えば10年後、階層格差が個人責任化されるとき、「下流社会の暴発」を未然に防ごうとする警察国家の到来がすでに予兆できる。そこにはもはやユーモアはない。(2005/12/30時流自論「2005年の予感(下)」)

耐震強度偽装-「高度印象型社会」へ
赤坂 真理(作家)
「官から民へ」とは構造改革の柱だが、民に任せると利潤追求とは端的にこうか!?と予期させられる事件ではあった。ただ私としてはその事件の「消費のされ方」により興味がある。
人々は国会証人喚問に夢中だったが、それが楽しまれたのは、政治家のダメぶりが丸出しになったと同時に、身も蓋もないエンターテイメント要素が「悪役」たちにあったからだ。
視聴者は「姉歯も哀しい人かも」とか「敵ながら堂に入った悪党ぶりだ内河!」とか本質と関わりない部分で盛り上がった。報道も時代劇かヤクザものを扱うノリで(実は衆院選から、「刺客」の比喩が圧倒的に好まれるなどそうだった)だからこそ「人気番組」だった。
司法改革として裁判員制度が導入されるというが、そのときには法廷も劇場化し、世間の目という無責任な印象論が人を評価するかもしれない。その法廷では人は印象や大衆的支持の多寡で裁かれる。高度印象型社会の予感がする。(2005/12/30時流自論「2005年の予感(下)」)
御手洗さんの文章の下線部分を読んでいて、最近斜め読みした「乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない」という新書本を思い起こした。著者の橋本治さんが批判する市場原理主義者(その具体例がエコノミストと称する人々)の典型的な思考がここに示されているからだ。

一見合理的に見える言説。だが、少し冷静になって読み返すと、実証的な根拠を欠くある種のドグマを同語反復的に叫んでいるに過ぎないことが分かる。どうして国民経済のパイが大きくなければ、セーフティネットは張れないのか。経済の効率化が達成できなければ、セーフティネットを張ることも許されず、敗者復活もない・・・何だそれ? 誰がそう決めたのか?

ここに示されているのは、市場原理主義者に取り憑くオブセッションである。いまこの国を牛耳る連中が疑うことなく信じ切っている「教義=強迫観念」を臆面もなくさらけ出すあたり、さすがに「勝ち組」企業のCanon社長、次の経団連会長ではある。

だが、社会の総体を資本の論理だけであっさり割り切ってしまおうとするその言説は、不思議なことにある種の「分かりやすさ=心地よさ」を内包する。「小泉改革」が支持を集める理由と、おそらくはオーバーラップする心地よさなんだろう。

分かりやすさ、心地よさの果てに何があるのだろう? 金森さんと赤坂さんの文章は、それぞれにこの社会が直面している危機の在りかを鋭く指し示す。

すべての社会的な矛盾は「当人の責任」とみなされ、「半ば心理学化され、個人化される」。本来ならば克服されるべき対立は覆い隠され、追究されるべき不正さえも「自己責任」という便利な言葉によって隠蔽されてしまうのだ。

「システムへの批判力」を有する人々は、不満を他罰的な文脈で処理し自己救済をはかるような不埒なクレーマー(最近知ったんだけど、英語的にはchronic complainerというんだってね)とみなされ、密かにブラックリスト(のようなもの)に登録され監視されるようになる。

そして、従順さを最大の美徳と教え込まれた人々は、「世間の目という無責任な印象論」による苛烈な裁断を恐れて、テレビタレントのように着飾り、ニュースキャスターのごときポーズを取ることに精一杯の努力を傾けるようになるしかない。「人は見た目が9割」なのだ。

分かりやすく、かつ心地よく響く「語り口」を身につけることは、「下流社会」からの脱出を企図する意欲ある青少年にとって必須の課題となる。高校や大学においては、コミュニケーション能力育成に向けた安っぽいカリキュラムがはびこり、「暗い人々」を「明るくスッキリとした見映え」に変えてくれる専門学校なども大いに繁盛するに違いない。

下流な娘たちが上昇をめざすとすれば、その夢たるや「マイ・フェア・レディ」のイライザ嬢(映画のオードリー=ヘプバーンはきれいだったね)のような存在となることでしかない。他方、上流階層に属する男性が夢見るのは、ヒギンズ教授のように「オードリーみたいに美しい女の子」の調教=教育に携わること・・・これがニッポンの未来? だとしたら、オレらは何という堕落した希望に向かって歩んでいることか・・・まさしく「げんなり」である。

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