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2004-12-16

大きな錯覚と「ユーザー・デモクラシー」と・・・

前回の「労働組合の現在、小さな組合と大きな錯覚と・・・」から、何となくつながっていると理解してほしい。

オレたちにとって「市民的権利」とは何だろう? この社会では「消費者の権利」以外はすべて幻なのではないかと思うことがある。というより、商品購入者に付与されるユーザー(商品利用者)としての権利こそ、最高の「人権」と考えられているのでないか。

グローバル化した消費=情報資本主義にあっては、「透明な市場競争主義」の徹底こそが理想とされる。「透明性」を担保するのは、端的にいってカネである。カネは地域の違いを超え、多様な民族文化の壁を突き崩し、世界のいたるところで「市場機構」という抽象神の降臨を可能にする。

すべてはカネの多寡で測られ、評価される。だから、カネと切り離された存在は意味を持たない。カネがなくてモノやサービスにアクセスできない連中は存在しないのと同じである。見えない存在が何かを要求することなど不可能だ。ましてや権利を語ることなど許されることではない。意味(=カネ)を持たない存在が意味(=権利)を語ることはない。市場主義の価値基準でいえば、当然そうなる。

いま、オレたちの社会では、日々飽きることなく、消費=情報資本主義のイデオロギーがさまざまなバリエーションをもってメッセージされている。社会・経済システムの深奥から発信され続けるメッセージは、ボディブローのように小さな人々のハート(大脳というべきか)を撃ち続ける。オレたちの多くが「市場主義的な錯覚」に陥ってしまうのも、致し方ないことなのかもしれない。

この社会の「市場主義的な錯覚」が育んだ奇っ怪な「人権」感覚をもっとも典型的に表出しているのが、クレーマーとよばれる一群の人々である。その意味で彼らはこの時代に特有な「人権」の追求者なのかもしれない。したがって、彼らに牽引される「民主主義のようなもの」は「クレーマー・デモクラシー」とでも命名されるのがふさわしい。だが、多くのクレーマーはラディカルだ。いつの時代にあってもラディカルな連中には、いささか疑わしいところがあると考えるのが賢明である。そう考えると、「クレーマー・デモクラシー」ではなく、より穏当な「ユーザー・デモクラシー」あたりが呼び名としては適当なのかもしれない。

ユーザー・デモクラシーには普遍的な妥当性が備わっているかに見える。グローバル化した消費=情報資本主義の哲学である市場主義と強力に(かつ「いびつに」)リンクしているからだ。だが、ユーザー・デモクラシーは偽の民主主義である。それは自己の欲望をなぞるように形づくられた要求の体系にすぎない。そこでは民主主義のリアリズムが要求するさまざまな「負担の共有」にかかわる考察は一切無視されている。カネは払うから、誰かがやってよ・・・きっとユーザー・デモクラットたちは、そんなふうに呟き続けるだけなのだ。

ユーザー・デモクラシーの説得力は強力である。だが、ある局面に至ると簡単にこけてしまう。消費者主権のような限定的な下位概念を超えて、より高次の人権概念に突き当たると、その無力さとマヌケぶりが曝け出される。だが、無力さとマヌケぶりに気づきもせず居直りを決め込むユーザー・デモクラットは危険である。彼らには銃を握りしめた少年兵のような破壊的側面が備わる。

ユーザー・デモクラシーが意味を持たず、それゆえに破壊的なものと化してしまう局面とは何か。たとえば先に示した労働の領域がその一例だろう。あるいは子どもをめぐる保育や教育もそうである。老人介護などの福祉をめぐってもユーザー・デモクラシーは無力であり、ときに危険である。

労働や教育、福祉といったサービス市場を横断的に特徴づけるものとは何なのか。おそらく、それは「カネだけ支払っていれば、すべてが完結するような性格のサービスではない」ということに尽きるだろう。そこには市場メカニズムがもっとも苦手とする領域が広がっている。

カネだけでは終わらない領域。そこでは一方的なサービスの需要者というのは存在しない。サービスのプロバイダーはユーザーに対して、あれやこれやと「面倒なこと」を要求する。良いサービスであればあるほど、ユーザーに対する要求は細かく面倒である。つまり、労働、教育、福祉などのサービスには、サービスを求める側(ユーザー)がサービスを提供する側(プロバイダー)に否応なしに繰り込まれてしまうという大きな特徴がある。

このようにサービスの出し手と受け手との間に複雑なコミュニケーションが必須とされるサービス活動を一括して、オレたちは「自己言及型サービス」と呼びたい。自己言及型のサービスにおいて、ユーザー・デモクラシーは無力であり、場合によってはこの上なく有害である。

教育は典型的な自己言及型サービスである。学校教育の例で確認しておこう。責任感をしっかり持った良識ある学校は、子どもたちに対して多くの要求を強いる。当たり前である。それが学校というサービス機関の本質だからだ。だが、子どもたちの全員が強制に対して従順であるわけがない。当然のことながら、反抗する子どもいる。なかには親(保護者)に対して「先生にやめるように言ってくれ。それでないとボクは学校に行かないぞ」と要求する(泣き言をいう)子どもも出てくるだろう。

さて、子どもからの要求に対して親はどうするのか。早速に学校(教員)に対して「私の子どもが喜んで学校に通うことができるよう強制をやめよ。この要求は教育サービスのコストを支払っている市民としての正当な権利に基づくものである」などと言い出すとしたら、これこそが典型的なユーザー・デモクラシーの言説というべきである。

言うまでもなく、このユーザー・デモクラットのお父さん(お母さんかもしれない)は重大なことを見過ごしている。それは学校教育は「子どもたちへの強制」をサービスの本質とするということである。

嫌なことや気に入らないことであっても、身につけるべき事柄があること。我慢すること。耐えること。好きになれない連中や納得できない状況とも折り合いながらも、自分の望む方向に変えていく努力を怠らないこと。これらの事柄を子どもたちに伝えるために強制を含む教育的な指導措置を行うことは、学校教育というサービスの根幹にかかわる。したがって、お父さん(あるいはお母さん)が学校教育サービスの正当なユーザーであるならば、学校(教員)と話し合いを重ねつつ、子どもに対しては「強制されること」の重要性を厳として説くはずなのである。

問題は簡単である。ユーザー・デモクラットたちは、学校(プロバイダー)と保護者(ユーザー)とが手を携えて、それぞれの立場から子どもたちに対して「厳として強制の意味を説くこと」こそが、サービスの核心であることを理解できないのである。

教育が「自己言及型のサービス」に他ならないという認識を持ち得ない彼らのふるまいは、ときとして意図せざる結果をもたらすことになる。学校教育を混乱に陥れたり、多くの真面目な教員を「心の病」へと追いやってしまったりもする。また、ユーザー・デモクラシーの下で、子どもたちは「王様犬」のようなふるまいから脱出する契機を見失いがちである。「王様犬」は、ひょんなきっかけから飼い主さえも噛み始める。ユーザー・デモクラシーの悲喜劇というべきである。

(------もう少しだけ続く------)

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コメント

  午後からSOHOでPCに向かってblog学習しているSASUKEです。

  社会学でいうところの「記号的消費」が重視される時代にあっては、産業構造の変質をどう受け容れていくかということは、社会学者の私(ウソ)には重要なテーマであります。
  ひと昔前ならIT産業に携わる者など虚業の代表格と決めつけておりました。おおよそ10年前、私は「マルチメディア」という言葉はかなりインチキ臭いと思っていたセンスのない人間ですが、気が付けばハードもソフトも著しい進化を遂げ、自分のセンスのなさをただ嘆くばかりです。

  アメリカのT.パワーズという経営学者が「ホスピタリティ・インダストリー」の中で対人的サービスを行う産業と労働について述べていますが、「サービス労働」や「感情労働」に代表される労働の質的変化も、頭では理解していても感覚的に馴染めない人が多いような気がしてなりません。

  日々、職場で感じることは、労働というものは、対人接触や人と人の関係性が非常に重要であるにもかかわらず、そこらあたりが上手くいかないために疎外感を味わっている人もいるという現実です。なかにはそういう自覚すらない(あるいは自覚したくない)人もいるようですが・・・・

  私自身、労働組合に属しておりますが、意識が希薄な組合員と言わざるをえません(ああ、かなり勇気のいる告白だ(笑))。正直なところ、労働組合の概念は明確ではありませんが、少なくとも賃金や労働時間を軸にした闘争はそろそろ終わりを告げ、もっと深く難しいテーマに切り込んでいかざるをえないような気がします。数値換算できないことがテーマであるだけに厄介です。

  これからの時代、環境が生み出す精神的ストレスを取り払っていくことも組合の役目だとは思いますが、不適応を起こしている本人に基礎的な適応力がないというのは言い過ぎでしょうか。これもやはり当人が受けてきた教育(家庭教育、学校教育等)の問題なのでしょうか。
  子ども達には数値化できない「見えない力」をつけさせたい、などとカッコイイことは考えているのですが、見えないので難儀しています。

  今回、「小さなメモ帳」に書かれている内容は「大きなメモ」なため、私の手には負えませんが、何となく書き込んでみました。まだ続くようなので、読ませて頂きます。

投稿: SASUKE | 2004-12-21 14:17

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