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2004-12-29

1年という日々と帰ってきた探偵と・・・

気がつくと、「小さなメモ帳」を開設してから1年を超えてしまっていた。光陰矢のごとし。

去年のいまごろ、オレは何をしていたんだろ? そう思って「小さなメモ帳」のバックナンバーをめくり直してみた。すると、そこには1年後の「いま」と寸分違わぬ暮らしぶりが記されているではないか。

たとえば、昨年の12月13日(土)のメモ。この日、オレは同居人の歯科通院をアシストする送迎ドライバーをしている。しかるに、1年を経た先の土曜日もまったく同様にヤツをアシストした。同じ時間帯、同じ歯医者、ヤツを降ろす交差点の位置さえ同じときている。何ともはや・・・

日々の暮らしぶりに向かって、「進歩」云々などというのは論外である。だが、「変化」の一切を拒絶するようなノッペリした人生もまた「問題あり」ではないのか。そう思えば、歯医者の悠長な治療ぶりを笑っている場合ではない。ただし、小さな違いはある。同居人の診療が終わるまでオレは「本屋」で待っていたのである。1年前は「喫茶店」だったのだ。

最近の本屋はパソコンで本を探すことができる。<Seek & Find>という行為は時間つぶしの王道である。本屋のパソコンを前にして、ぼんやりした記憶をたどってあれやこれやの本を検索していく・・・あるもんだな・・・やっぱり・・・ないよ・・・あったよ・・・そうこうしているうちに、10数冊の本を購入する羽目になってしまった。何ともはや・・・

Seek & Find・・・探しものが見つかるのは嬉しいことである。その喜びを商売に結びつけようと、本屋はパソコンを並べている。本屋の浅知恵である。だが、それに引っかかるようなヤツは・・・まさしく「愚か者」というべきか。

「愚か者死すべし」、9年ぶりに私立探偵・沢崎が帰ってきた。探偵は相変わらずだ。Seek & Find・・・フィリップ・マーロウを気取って気障なせりふを吐きながら真犯人を捜し回る。西新宿の古びた雑居ビルの事務所も相変わらず。おんぼろブルーバードも廃車にならずに走りまわっている。探偵は禁煙することもなく(両切りのピース!!)、当然のことながらケータイなんて持っていないのだ(使うこともできない!!)・・・作者による「後記」を読むと、この9年間に「短時間で書くための執筆方法と執筆能力の獲得に苦心を重ねて」きたとある。この作品も短時間で書くことができたとか。原尞ファンとしては喜ばしい限りである。

愚か者死すべし
原 寮
早川書房
2004-11-25


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2004-12-16

大きな錯覚と「ユーザー・デモクラシー」と・・・

前回の「労働組合の現在、小さな組合と大きな錯覚と・・・」から、何となくつながっていると理解してほしい。

オレたちにとって「市民的権利」とは何だろう? この社会では「消費者の権利」以外はすべて幻なのではないかと思うことがある。というより、商品購入者に付与されるユーザー(商品利用者)としての権利こそ、最高の「人権」と考えられているのでないか。

グローバル化した消費=情報資本主義にあっては、「透明な市場競争主義」の徹底こそが理想とされる。「透明性」を担保するのは、端的にいってカネである。カネは地域の違いを超え、多様な民族文化の壁を突き崩し、世界のいたるところで「市場機構」という抽象神の降臨を可能にする。

すべてはカネの多寡で測られ、評価される。だから、カネと切り離された存在は意味を持たない。カネがなくてモノやサービスにアクセスできない連中は存在しないのと同じである。見えない存在が何かを要求することなど不可能だ。ましてや権利を語ることなど許されることではない。意味(=カネ)を持たない存在が意味(=権利)を語ることはない。市場主義の価値基準でいえば、当然そうなる。

いま、オレたちの社会では、日々飽きることなく、消費=情報資本主義のイデオロギーがさまざまなバリエーションをもってメッセージされている。社会・経済システムの深奥から発信され続けるメッセージは、ボディブローのように小さな人々のハート(大脳というべきか)を撃ち続ける。オレたちの多くが「市場主義的な錯覚」に陥ってしまうのも、致し方ないことなのかもしれない。

この社会の「市場主義的な錯覚」が育んだ奇っ怪な「人権」感覚をもっとも典型的に表出しているのが、クレーマーとよばれる一群の人々である。その意味で彼らはこの時代に特有な「人権」の追求者なのかもしれない。したがって、彼らに牽引される「民主主義のようなもの」は「クレーマー・デモクラシー」とでも命名されるのがふさわしい。だが、多くのクレーマーはラディカルだ。いつの時代にあってもラディカルな連中には、いささか疑わしいところがあると考えるのが賢明である。そう考えると、「クレーマー・デモクラシー」ではなく、より穏当な「ユーザー・デモクラシー」あたりが呼び名としては適当なのかもしれない。

ユーザー・デモクラシーには普遍的な妥当性が備わっているかに見える。グローバル化した消費=情報資本主義の哲学である市場主義と強力に(かつ「いびつに」)リンクしているからだ。だが、ユーザー・デモクラシーは偽の民主主義である。それは自己の欲望をなぞるように形づくられた要求の体系にすぎない。そこでは民主主義のリアリズムが要求するさまざまな「負担の共有」にかかわる考察は一切無視されている。カネは払うから、誰かがやってよ・・・きっとユーザー・デモクラットたちは、そんなふうに呟き続けるだけなのだ。

ユーザー・デモクラシーの説得力は強力である。だが、ある局面に至ると簡単にこけてしまう。消費者主権のような限定的な下位概念を超えて、より高次の人権概念に突き当たると、その無力さとマヌケぶりが曝け出される。だが、無力さとマヌケぶりに気づきもせず居直りを決め込むユーザー・デモクラットは危険である。彼らには銃を握りしめた少年兵のような破壊的側面が備わる。

ユーザー・デモクラシーが意味を持たず、それゆえに破壊的なものと化してしまう局面とは何か。たとえば先に示した労働の領域がその一例だろう。あるいは子どもをめぐる保育や教育もそうである。老人介護などの福祉をめぐってもユーザー・デモクラシーは無力であり、ときに危険である。

労働や教育、福祉といったサービス市場を横断的に特徴づけるものとは何なのか。おそらく、それは「カネだけ支払っていれば、すべてが完結するような性格のサービスではない」ということに尽きるだろう。そこには市場メカニズムがもっとも苦手とする領域が広がっている。

カネだけでは終わらない領域。そこでは一方的なサービスの需要者というのは存在しない。サービスのプロバイダーはユーザーに対して、あれやこれやと「面倒なこと」を要求する。良いサービスであればあるほど、ユーザーに対する要求は細かく面倒である。つまり、労働、教育、福祉などのサービスには、サービスを求める側(ユーザー)がサービスを提供する側(プロバイダー)に否応なしに繰り込まれてしまうという大きな特徴がある。

このようにサービスの出し手と受け手との間に複雑なコミュニケーションが必須とされるサービス活動を一括して、オレたちは「自己言及型サービス」と呼びたい。自己言及型のサービスにおいて、ユーザー・デモクラシーは無力であり、場合によってはこの上なく有害である。

教育は典型的な自己言及型サービスである。学校教育の例で確認しておこう。責任感をしっかり持った良識ある学校は、子どもたちに対して多くの要求を強いる。当たり前である。それが学校というサービス機関の本質だからだ。だが、子どもたちの全員が強制に対して従順であるわけがない。当然のことながら、反抗する子どもいる。なかには親(保護者)に対して「先生にやめるように言ってくれ。それでないとボクは学校に行かないぞ」と要求する(泣き言をいう)子どもも出てくるだろう。

さて、子どもからの要求に対して親はどうするのか。早速に学校(教員)に対して「私の子どもが喜んで学校に通うことができるよう強制をやめよ。この要求は教育サービスのコストを支払っている市民としての正当な権利に基づくものである」などと言い出すとしたら、これこそが典型的なユーザー・デモクラシーの言説というべきである。

言うまでもなく、このユーザー・デモクラットのお父さん(お母さんかもしれない)は重大なことを見過ごしている。それは学校教育は「子どもたちへの強制」をサービスの本質とするということである。

嫌なことや気に入らないことであっても、身につけるべき事柄があること。我慢すること。耐えること。好きになれない連中や納得できない状況とも折り合いながらも、自分の望む方向に変えていく努力を怠らないこと。これらの事柄を子どもたちに伝えるために強制を含む教育的な指導措置を行うことは、学校教育というサービスの根幹にかかわる。したがって、お父さん(あるいはお母さん)が学校教育サービスの正当なユーザーであるならば、学校(教員)と話し合いを重ねつつ、子どもに対しては「強制されること」の重要性を厳として説くはずなのである。

問題は簡単である。ユーザー・デモクラットたちは、学校(プロバイダー)と保護者(ユーザー)とが手を携えて、それぞれの立場から子どもたちに対して「厳として強制の意味を説くこと」こそが、サービスの核心であることを理解できないのである。

教育が「自己言及型のサービス」に他ならないという認識を持ち得ない彼らのふるまいは、ときとして意図せざる結果をもたらすことになる。学校教育を混乱に陥れたり、多くの真面目な教員を「心の病」へと追いやってしまったりもする。また、ユーザー・デモクラシーの下で、子どもたちは「王様犬」のようなふるまいから脱出する契機を見失いがちである。「王様犬」は、ひょんなきっかけから飼い主さえも噛み始める。ユーザー・デモクラシーの悲喜劇というべきである。

(------もう少しだけ続く------)

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労働組合の現在、小さな組合と大きな錯覚と・・・

直前にポストした「年金詐欺のグローバル化、労働組合の現在・・・」から、何となくつながっていると理解してほしい。

さて、この国の「小さな職場」のお話である。管理職員から不当な嫌がらせを受けた職員がいたという。嫌がらせといっても取るに足らないことだ。だが、嫌がらせを語るにその大小は関係ない。嫌がらせは嫌がらせである。その小さな職場には、幸いなことに労働組合が存在する。もちろん「小さな労働組合」である。プロの活動家もいなければ、積極的に役員を引き受けようとする者などいるはずもない。組織の体裁を備えるために、毎年、四苦八苦しているような組合だ。

嫌がらせを受けた職員は、その事実を組合に伝えなかった。理由はわからない。しかし、その後も嫌がらせが続き、情報は組合役員の耳に届くところとなった。役員たちは彼に訊ねた。「どうしたんだい?」 堰を切ったように体験が語られた。そして最後に、彼は叫ぶようにこういったのである・・・

「組合は何もしてくれなかった。こんな組合だったら、組合費を払っている意味がない・・・」
高度に消費=情報化した資本主義の下で、何かが大きくずれてきている。市民的権利さえ市場化され、カネさえ払えば際限なく保障されるかのような錯覚が広がっている。カネで買えないモノやサービスはない。カネを出して買ったのだから、黙っていてもサポートを受ける権利はあるはずだ・・・そんな錯覚が広がっている。

先に示した労働組合の話を例にして、この国の住民の多くが陥っている「錯覚」の正体を解剖してみる。

市場主義的にいえば、労働組合といえども、労働基本権の保障というサービス(商品)を提供するプロバイダー(供給者)に過ぎない。サービスのプロバイダーである以上、料金(組合費)支払者には、それに見合ったサービスを受ける権利がある。もちろん、顧客(組合員)を満足させるきめ細やかなサポートもそこには含まれているはずだ。それができないような労働組合なんて意味ないじゃないか。

カネの支払いがあって、サービスの供給がある。その通りである。だが、そこには重大な「勘違い」が潜んでいる。労働組合運動を市場主義的な意味での「サービス・プロバイダー」と位置づける理解からは、自分たちが負担をシェアする運動(その1つの形態がストライキだ)という視点は生まれない。当然、執行役員を引き受けるといった面倒な負担をシェアする視点も持ち得ない。その結果、労働運動はやせ細り、資本(経営)に対する重要な対抗軸の1つを市民社会は失い、資本(経営)の横暴は極まる。リストラ、従業員の総パート化、就職できない若者の大量発生・・・知っての通りである。

(-----当然、続くことになる-----)

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年金詐欺のグローバル化、労働組合の現在・・・

洋の東西を問わず、どこの国でも庶民が被る災いは似たようなものである。グローバル資本主義の下では、なおさらにその傾向が強まる。小さな人々の悲嘆に国境はない。

BBC NEWS | Strike move in public pension row

英国の公務員労働者が被る不利益は、わが国の年金加入者が被るそれとほとんど同じである。両国の政府が提示する年金の「改革ブラン」とやらもそっくりだ。支給年齢を60歳から65歳に引き上げるというディテールの狡っ辛さも共通している。これは政府による年金詐欺である。詐欺の手口さえもグローバル化しているあたりが、何とも腹立たしい。

そもそもわが国の年金制度に関していえば、アホな二世国会議員どもや傲岸不遜な官僚たちの手でかなりの年金資金が盗まれてしまった。たとえば「グリーンピア」や「住宅融資事業」への杜撰な投融資を見るだけでいい。国民年金資金は少なく見積もっても1兆3,000億円は連中の手で抜き取られてしまったのだ。

国家による詐欺行為に対して、英国の公務員労働者は「最後の手段」と自制的にふるまいつつも、「ストライキ」で闘う構えを崩していない。降りかかってくる「災い」は同じでも、それを受けとめる姿勢はまったく違う。英国の「小さな人々」は黙っちゃいないのだ。しかるにこの国のオレたちは・・・

(-----以下、何回かにわたって続けて書くことにしよう-----)

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2004-12-10

ノートPCと老人の陰嚢と・・・

いつもソファの上にだらぁ~と座って、古ぼけたThinkPadをひざの上に乗せている。

ITmedia:ノートPC利用が男性生殖機能に影響?

英Human Reproduction誌で発表された研究報告「ノートPCユーザーの陰嚢温度上昇」によれば、ノートPCから発生する熱と、コンピュータのバランスを保つために必要な足の位置が組み合わさると、男性生殖器周辺の温度が高まって、長期的には精子が作られる量が減る可能性がある。
記事のなかで、研究チームを率いるニューヨーク州立大学のイエフィム・シェインキン博士は「今後さらなる研究が必要だが、10代の少年と若い男性はひざの上でのコンピュータ利用を制限すべきだ」とコメントしている。

人類の未来のために若い世代の陰嚢はしっかりと保護されるべきである。だが、中高年齢者のそれはどうなのか。むしろ彼らにおいては、陰嚢の不活性化こそが望ましいのでないか。

女子高生に一目ぼれ、熊本で70歳ストーカー男を逮捕(読売新聞)

超高齢化社会に向かって突き進むこの国にあって、健康で元気いっぱいの老人は「社会的共通資本」というべき存在である。だが、むやみに精子を作り、その処理に懊悩するような老人はその限りではない。

活発に分泌される性ホルモンに駆動されたあげく、年甲斐もなく見苦しい不良行為に及ぶ老人は「社会の敵」である。「健康で元気」も方向と限度を間違えると、とんでもないことになる。そう思えば、老人の陰嚢は熱でふやけてしまったほうがいいのではないか。

発熱するThinkPadによって、日夜、陰嚢を枯れさせているのだから、間違いなく<良き老人>になるだろう。そう自負するオレに対して、同居人をはじめ親しい連中は、そうは言わない。

連中は言う・・・ふやけてしまったのは陰嚢だけじゃない、全身だろうが・・・オレのThinkPadはそんなに熱を出さないのになあ・・・

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2004-12-07

こっそりと職場で読書して・・・

仕事中、こっそりと好きな本を読み続ける。あたかも必要な資料を探しているかのような顔つきをして。だから、いつもより仕事に打ち込んでいるように見えるかもしれない。

もし、そうならば、こんなに良いことはない。オレはハッピーだし、まわりもハッピーなんだから・・・とかなんとか浮かれているうちに、「そんなに読書したいなら、おうちに帰れば・・・」とバッサリやられちゃうかも。頭隠して尻隠さず・・・中途半端な「悪人」というのは、そんなもんだからなあ・・・

で、読み終えた本は、これ。小熊英二と上野千鶴子による鶴見俊輔インタビュー。鶴見俊輔って、ホントにいいヒトだ。ことを決するのは「大義」にあらず、「ヤクザの仁義」か・・・

戦争が遺したもの
鶴見 俊輔 上野 千鶴子 小熊 英二
新曜社
2004-03-11


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2004-12-04

テスト投稿、FireFox、MSNブログ・・・

このメモはubicast Bloggerというブログツールを使って書いている。つまり、テストのためのメモということになる。

ところで、Internet ExploreからFireFoxにデフォルトのブラウザを代えるために、FireFoxにいくつかのエクステンション(拡張機能)を追加した。たとえば、「CopyURL+」をインストールして右クリック拡張を施すとかである。

「CopyURL+」はuser.jsをいじることで、細かくカスタマイズできる。IEでのオートアンカー以上の使い方も可能だ。これで安心してFireFoxを使うことができる。

ところで、「後出しジャンケン」をビジネスの基本とする、あのSoftware Giant、Microsoftがとうとうブログサービスをスタートさせた。

日本市場で先行的に試験サービスしていたブログサービスにメールやメッセンジャーなどを統合しての参入である。Software Giantの基本戦略たる「後出しジャンケン」がブログの世界でも成功するのか、たいへん興味深いところだ。

Microsoftのこれまでの歴史(Software Giantへの道!!)を振り返ると、市場戦略における「後出しジャンケン」と同様に、ソフトウェアサービスにおける「てんこ盛り」のサービス提供が決定的に重要だったように思われる。

ゴテゴテしていて重たいけどなあ・・・などと呟いているうちに、気がつくとSoftware Giantは市場の隅々までガッチリと占有-支配している。少なくともこれまではそうしたプロセスの繰り返しだった。結局のところ、これまで消費者の好むところというのは、使いもしないような「あれこれの付加機能」や「お得なサービス」や「おまけ」などなどの「てんこ盛り」だったのである。

MSN Spacesが「てんこ盛り」のサービスかどうかは分からない。だが、人々がモノリシックに提供される「てんこ盛り」に惹かれる時代は終わったように感じる。「てんこ盛り」志向はデジタル環境におけるリソースの乏しさが生み出した「裏返った欲望」にすぎない。

デジタル・リソースの充実度がますます高まっている時代にあって、さすがに消費者の志向も、モノリシックな「てんこ盛り」から得られる満足感からシンプルで選択可能な「キッパリ」したアクセスビリティに移っているのではないか。このあたりの変化を含めて、MSNブログの推移に注目しておきたい。

BBC NEWS | Microsoft gets the blogging bug
Yahoo!ニュース - コンピュータ -japan.internet.com


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