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2004-04-26

やれやれ、「自己責任」を果たさないと…

RSSリーダーを替えました。これまで利用していたSharpReaderに替えて、Miechを使うことにしました。変更の理由は特にありません。あえていえば、大量のRSSサイトを登録したためか、SharpRederの動作が遅くなったように感じたことでしょうか。インストールしたばかりのMiechにも大量のサイトを登録しましたが、その動作は速そうです。当分の間、これでいくことにします。

ところで、Miechには「Blogエディタ」がついています。これを使ってみたい…したがって、このメモはそのエディタで書いて投稿することにします。Miechの「Blogエディタ」を使ってみたいから、あえて何かを書きつけてみようと思う・・・まあ、いまの時代、「何かをしたい」と思うのは、そもそもこんな成りゆきなんでしょう。高度情報資本主義における欲望の機制、からくりってやつは・・・大上段に構えるまでもなく、目的と手段の倒錯のなかに欲望の種子を育むような奇妙な存在が人間というもの・・・その意味で、私は真っ当に「人類している」わけです。

さて、イラクにおける日本人人質事件をめぐる騒動もようやく沈静化の方向に向かいつつあるようです。やれやれ、キャーキャーとうるさい騒ぎでしたね。ともあれ、被害者の方々が何とかご自宅に戻ることができて、よかった、よかった。

ところで、私は「乗ってはいけない、買ってはいけない、騒いではいけない・・・」と感じたものには、それがいかに勢いよく燃え盛っているにせよ、いやむしろ勢いよく炎を噴き上げているからこそ、それには触らず、そっと眺めやり、基本的には黙することにしています。簡単にいえば、調子に乗らないようにしようということです。元来、私はトレンドに流されやすい大衆の見本のようなお調子者ですからねえ・・・何であれ、自戒の気持ちが大切。だから、これまで「イラク人質事件」なるものには口を挟まないようにしてきました。

しかし、嫌な感じですよねえ・・・いつから「自己責任」という言葉は、窮地に陥った同胞を苛めるための「イジメの凶器」となってしまったのでしょうか。人質となった方々において、安全に対する甘さがあったことは事実だとしても、それは問題の本質ではありません。議論が事の本質に向かうことを巧みに逸らしながら、危険な状況に陥ってしまった国民に対して、「バカモン!! 自己責任だろうが!!」と怒鳴りまくるような政府とマスメディアに支配されているような民主国家・・・これでは、戦前の「帝国」と同じではありませんか。

先日、サウナの休憩室で寝そべって読んだ週刊誌によれば、政府は事件の被害者のプライバシーをほじくり出し、一部のマスメディアに情報を流した疑いがあるとのこと。また、被害者の実家などには大量の電話、ファックス、メールが送りつけられ、その内容の多くは「死んでしまえ!!」というような嫌がらせ・イジメのメッセージだったともあります。さらに、成田空港に10台ものタクシーを予約されてしまう、という嫌がらせを受けた家族もあったのだとか。こうした嫌がらせ、イジメもまた、「自己責任」を忘れていたことに対する(「国民」の側からする)punishmentsなんでしょうか・・・まったくウンザリします。

朝日新聞の文化欄(4月19日付)に高橋源一郎さんが「どこかの国の人質問題」と題する文章を載せています。ホントは全文をここに引用したい(でも、面倒なのでやめておきます)。私の言いたいことは高橋さんの文章に凝縮されています。機会があれば、是非読んでみてください。(やめておこうと思ったのですが、最後の段落だけでも引用しておくことにします)

アメリカ軍はイラクでがんがん女子ども老人をぶち殺しています。日本政府はもちろん見て見ぬふりです。そんな国の軍隊がのこのこ出かけてイラクの人たちの反感をかい、日本へのテロ攻撃の危険を増やしてしまったのを、民間のボランティアが(政府の勧告に反して)民衆に向けて活動することで、その危険を減らしてくれたのです。彼らは、日本人の名誉を高め(その結果、日本の安全に寄与し)ました。ブッシュに気に入られることばかり考えているコイズミのような人間だけではなく、いい人間もいることを、イラクの人たちに証明してくれたからです。つまり、バカな政府の犯した過ちを、人質の人たちが償ってくれたのです。10万人軍隊を送るより、彼らの果たした役割の方が大きかった。だったら、政府や一部マスコミは、まず彼らに感謝状を贈るべきではないでしょうか。それが非難の嵐とは。
わたしはわたしの国の人質の人たちにこういいたいです──こんな恩知らずの国のことなんかもう放っておきなさい。

残酷で「恩知らずの国」に帰還した可哀相な「人質」の方々…海外のメディアも目を丸くして、「どうなってるんだ?ジャパンという不思議は…」と訝しげに呟いています。ここではその代表として、New York Timesの第1面を飾った記事をあげておきます。欧米諸国では絶対に「アリエナイ」ことが、私たちの国、私たちの社会で起きていることがよく分かります。

The Hostages: Freed From Captivity in Iraq, Japanese Return to More Pain(1)

The Hostages: Freed From Captivity in Iraq, Japanese Return to More Pain(2)

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2004-04-10

この国の学校はどうなっていくのか・・・

季節は春、新年度のスタートです。期待と不安を胸いっぱいにつめこんだ新人さんたちが、学校や職場で「新しい一歩」を踏み出す春です・・・先ほど立ち上げたRSSリーダーがかき集めてきた記事のなかにも、たとえば次のようなものがありました。

株式会社が設立の中学校 岡山に開校

「教育特区」に認められた株式会社立の中学校。全国初のスタートなんだそうです。この中学校で学び始めるピアピカの1年生に対して、まずは「おめでとう、がんばってね」とお祝いと激励の言葉を贈ります。

ところで、そもそも「特区」とは何なのでしょうね。聞くところよれば、「経済改革特区」構想というのは、経済産業省の若手官僚が風呂に入っていて思いついたものとか。ご存知の通り、「規制改革」を標榜する小泉政権なのに、地方分権や社会・経済的な規制緩和は遅々として進んでいません。既得権益と密接に絡んだ各種の規制に必死にしがみつく政・官・業の魑魅魍魎・・・「笛吹けど、踊らず」となるのは当然です。そこで、何とか「改革」の恰好をつけるためにやってみたのが(「風穴を開ける」とかいってね)、この「特区」構想というわけです。そう考えると、この「経済改革特区」構想こそは、「小泉構造改革」という奇妙な改革運動を象徴する典型的な「改革」政策である、というべきなのかもしれません。

規制撤廃(緩和)-deregulation-を進めるにあたって、「特区」という珍妙な装置を要するというのは、どういうことなのか・・・文革期の鎖国経済を脱して、ようやく改革開放政策を唱えるに至った四半世紀前の中国(鄧小平の中国だね)でもあるまいし、あるいは金正日独裁体制の維持と外資導入を何とか両立したい現在の北朝鮮の「経済特区」でもあるまいし・・・。規制を緩和するのが「特別」で、規制を維持するのが「基本」というような政策体系のどこが「構造改革」なのか・・・この分でいえば、日本異質論者-Japan revisionist-たちの主張は、まったく正しかったということになりそうです。

ところで、「教育特区」における「株式会社設立の学校」もいいけれど、市場メカニズムの単純な導入が、その国の教育の質を上げることに直結するかのような「怪しげな議論」が横行している現状には、ホントにダイジョーブなのかい?・・・と半畳を入れたくなります。だってね、ちょっと前には「ゆとり教育」は教育の質的向上そのものだ、とかいっていた「専門家」や「識者」がいっぱいいたんですからねえ・・・。

振り返ってみると、1990年代のある時点から、この国では「市場競争に晒すと、何でもうまくいく」というような馬鹿げた「市場競争万能論」がある種の「信仰」のように広く流布しているようにも感じます。しかも、先述した「特区」の話ではありませんが、本来は断固として市場競争を確保すべき多くの分野については、あいかわらず市場メカニズムを作動させないような規制を残したまま、教育や福祉などの公共財(公的サービス)に対しては、まるで何かに憑かれたかのように焦って市場競争を導入しようとしているようで・・・いうまでもなく、これらの分野こそ市場メカニズムの導入に対しては、最大限の慎重さを要することはいうまでもありません(古典的な経済学の教科書でも「市場の失敗」というではありませんか)。

BBC NEWS | Education | Teachers protest over assistants

BBC NEWSが配信した今日のニュースです。記事によれば、教員資格を持たない「クラスルーム・アシスタント」に大幅な職務権限の移譲を行おうとする政府に対して、イギリスの教職員組合(National Union of Teachers)はストライキを配置して闘うことを決めた、とあります。こんなことで「教育の質」は確保できるのか、組合側はそう主張しています。確かに「クラスルーム・アシスタント」は「教員」よりも格段に安上がりの教育労働力を提供するでしょうから、市場主義的な視点でいえば、「費用対効果」からいって効率的な選択なのかもしれません。しかし、この場合の「費用」や「効果」は単純な市場分析で得られるものでないことは、あらためていうまでもないことです。

The New York Times > International > Europe > Suutarila Journal: Educators Flocking to Finland, Land of Literate Children

The New York Timesが、本日配信した特集記事です。フィンランドの学校教育を詳しくリポートしています。

Finland topped a respected international survey last year, coming in first in literacy and placing in the top five in math and science.
学力の国際比較でトップ水準を示しているフィンランドの学校教育の特徴がよく分かる記事となっています。
While there are no programs for gifted children, teachers are free to devise ways to challenge their smartest students. The smarter students help teach the average students. "Sometimes you learn better that way," said Pirjo Kanno, the principal in Suutarila.
早期教育や天才教育などといった教育のあり方とは正反対の「ゆっくり、じっくり、みんなで助け合い型の教育」が、最終的には一番となる・・・教育というのはそういうものなんでしょうね。単純な市場競争主義で解決できる代物ではないことがよく分かります。

ところで、文部科学省のお役人たちには、以下のセンテンスをしっかり読んでほしいなあ、と感じてしまいます。

So long as schools stick to the core national curriculum, which lays out goals and subject areas, they are free to teach the way they want. They can choose their textbooks or ditch them altogether, teach indoors or outdoors, cluster children in small or large groups.
学校教育の活性化は、教員に対して最大限の「教える自由」を保障し、そのことを通して逆に「教える責任」もまたしっかりと再認識してもらうことからスタートすべきなんでしょうね。「君が代」を歌わないならば、処分してやるぞ・・・こんなふうに教員を脅しているようでは、いかなる競争原理をもってしても、学校は活性化しないでしょうし、教育の質の向上も期待できないのは明らかです。

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