2009-05-08

買った本、借りた本、立ち読みした本

読んだはずの本。同じ本を買ったり借りたりといった愚かなことにならないために憶えておこう。面倒なのでつまんない感想文はパスだ。

  • 仲正 昌樹集中講義 アメリカ現代思想
  • 会田 弘継追跡・アメリカの思想家たち

アメリカ思想とその担い手についてのお勉強。正直にいうと、ジョン・ロールズらのリベラリズムにしても、ロバート・ノージックらのリバタリアリズムにしても、マイケル・サンデルらのコミュニタリアニズムにしても、一つとして原典を読んだことがない。知ったかぶりにも程があるぞ。「アカンではないか!!」と自分を叱ってみるが、「いまさらなあ・・・・・・」とも思う。残り少ない人生。オジサンも忙しいのである。

  • 水村 美苗「日本語が亡びるとき
  • 半藤 一利「昭和史 戦後編
  • 内田 樹「昭和のエートス
  • 上杉 隆「石原慎太郎-5人の参謀
  • 松岡 正剛「多読術
  • 西田 宗千佳「クラウド・コンピューティング
  • 橋本 治・内田 樹「橋本治と内田樹

そこらにあったので、とりあえず読む。上のほうから「読んで損はしなかったかな」という順番。「日本語が亡びるとき」は妙に話題になっていたので、眉に唾を塗りながら読んだ。
いじけた性格のオジサンは、世評の高いものに対して常に懐疑的である。いつでもどこでも嫉妬心の虜になっているような人間に向かって、「冷静に、そして公平に」というのは無理というもの。
ところが、この本は面白かった。「まずは国語を守れ。
子どもたちに近代日本文学を読ませよ。普遍語たる英語に精通すべきは、一部の人間だけでよろしい。そもそも『誰もがバイリンガル』という努力は無理・無駄」とする水村先生の主張・提言に対する賛否はともあれ、やっぱり立派な作家の書くものはサクサクと読むことができて、爽快な気分になる。
これに対して、途中で何度も放り出したのが、「橋本治と内田樹」という対談本。喋っている本人からして、「対談などに意味があるのかね」というような発言をしているんだもん、面白いわけがない。
何度か途切れつつも最後まで読み通したのは、「借りた本はしゃぶり尽くせ」という我が内なる貧乏人根性ゆえである。
貧乏人根性といえば、「クラウド・コンピューティング」と「多読術」に至っては、最初から最後まで本屋の店頭で読み終えた。すべてのヒトがすべての本を「立ち読み」で読み終えるとき、この国の出版文化はどうなるのか。「Google問題」みたいだね。

  • 東谷 暁「日本経済の突破口
  • 池尾 和人・池田 信夫「なぜ世界は不況に陥ったのか 集中講義・金融危機と経済学
  • 広瀬 隆「資本主義崩壊の首謀者たち
  • 中谷 巌「資本主義はなぜ自壊したか

本屋の店頭に平積みされている「世界恐慌2.0」関連本の一部。旺盛な野次馬根性こそ、貧乏人の属性の一部である。猛火が自宅を包み込もうとする間際でさえも、へらへら笑って火事場を眺める野次馬どもの群れ。悲しいことにオジサンも、その一人らしい。
これも上から「読んで損なし」の順番。といっても、「内容を要約してみて」と要求されると、どれもこれも薄ぼんやりとした記憶しか残っていない。
「日本経済の突破口」には「資本主義はなぜ自壊したか」に対する痛烈な批判が載っていた。中谷先生の「回心」は、ちょっとばかり早すぎるし、軽すぎるとオジサンも思った。沈黙をもって懺悔の表明とする。野次馬には程遠い態度である。あれれ、そうすると中谷先生も火事場の野次馬のお一人ということになってしまうが、如何か?

  • 津村 記久子「ポストライムの舟
  • 津村 記久子「カソウスキの行方

芥川賞を受賞した津村先生の作品。この国の若い連中の「リアル」が、よく分かるような気がした。
貧乏人根性を抱え込まざるを得ない卑小なる存在にとっての、のっぺりとした日常性。でも、そんな卑小な存在があれやこれやの苦闘の果てに洗練度を高めていったとき、いったい何が見えてくるのか?
この国の若い連中が生きる「リアル」とは、おそらくはそういう問いとともに呼び起こされるものなのだろう。 津村先生の作品には、そうした問いにたいする答えの一端があるように感じた。

  • 柄谷 行人「柄谷行人 政治を語る

本屋で見つけて、カフェに跳び込み、一気に読み終える。レンタルDVDの宣伝ではないが、購入するなり一気呵成に読み終えた。
柄谷先生、現状を語る。ますます分かりやすくなってきたお言葉。閉塞したつまらない時代。それだからこそ、「遠大なる見取図」のもとに「大いなる希望」を指さしてみせる。
本物の思想家というのは、どうしてこうも格好いいのか。それこそ、嫉妬しちゃうなあ。

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2009-04-09

合衆国再生、オバマ司令官の戦い

読み捨てられる数々の本。借りた本もあれば、衝動的に買った本もある。借り受けたものは所有者の許に帰っていき、自分の本も紙ごみの山に埋もれて発掘不能になる危険性が大。少しは覚えておいてやろう。まずは1冊目。

合衆国再生」。借りた本。政治家としてのバラク・フセイン・オバマ氏の人柄、政治信条、政策に対する基本姿勢がよく分かる。

大統領選挙キャンペーンの一環として出版されたはずだから、自分をアピールすることに必死ではあるのだろう。
けれど、そのアピールぶりがスマート。Warm Heart & Cool Head・・・・・誠実な人柄と怜悧・冷静な政治姿勢がじんわりと伝わってくる。いささかナイーブな感想ではあるが、こんな政治家がこの国にもいたらなあ、と感じてしまう。

感心したついでに付け加えておくと、オバマ大統領は「作家」としても一流の才能に恵まれているようだ。描き出されたエピソードの数々が、まるで映画の印象的なシーンや洒落たテレビCMのように「映像的に記憶される」のだ。
本の現物は手もとにないが、いくつものエピソードをそらんじているところをみると(このオレが!!)、大統領の文章には「魔法」がかかっているとしかいいようがない。

聞くところによれば、スピーチのほうはとても若いライターたちがアシストしているようだが(「What Would Obama Say? - New York Times」、「Obama’s Speechwriter Moves to the White House - The Caucus Blog - NYTimes.com」などを参考にせよ)、著作のほうはあくまで自分で書いているという。つまりは、「文は人なり」ということなんだろう。

政治指導者の著作ということでいえば、「美しい国へ」やら「とてつもない日本」やらのゴーストライター探しで盛りあがったどこかの国とは、えらい違いである。
政治における「文=人」の品質の目も眩むような格差。というよりも、そもそも岸信介の孫や福田赳夫の息子、さらには吉田茂の孫などとオバマ大統領を「同じカテゴリーに属する人」と考えてはいけないのだろう。政治家としての存在領域がまったく異なるのだ。比べようもないというのが正しい。

ともあれ、オバマ大統領はたいへんである。内政、外交、経済、軍事などなどのあれやこれやの無理難題がホワイトハウスに降りかかってくる。いささかふざけた比喩を用いるならば、大統領は「世界恐慌2.0」という名の怪物と戦う地球同盟軍の最高司令官のようなもの。厳しい戦いが続きそうだ。

オレに子どもがいたら(いないんだけど)、暮れかかる青空を見やりながら、そっと子どもの肩を抱き寄せて、

空を見なさい!!  あれがオバマ司令官のエアーフォースワンだよ!! オバマ司令官の下で人類は危機を脱したんだよ

といってみたい。でも、これってくだらない娯楽映画「Independence Day」の劣悪なパロディにしかならないか・・・・・・

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2009-03-05

不滅の源一郎先生、短めがステキ

忘れてしまいそう。メモしておく。

高橋源一郎「君が代は千代に八千代に」。透明な文体で綴られる短編の数々。短編というと、決まり文句のように「珠玉の」などと枕詞がつくが、さすがにここでは使えない。

何しろ話のなかみが相当にやばい。近親相姦、セックスドール、幼児性愛、数々の殺人、繰り返される暴力、性転換、奇妙な自殺、死後の世界、数学、刑罰、宇宙の果て、退屈、狂気、悪意、詐欺、結婚、思想の首領たち、最後の晩餐、君が代、身体改造・・・・・・ひどい話ばっかり。正常と異常の境界線というか、適応と禁忌の断層というか、そんな「此方/彼方」の境目を面白半分に跨いで遊ぶゲームみたい。文章の清潔感が支えてくれるから、さすがに崖の下に落っこちるようなことはないんだけれどね。

以前に読んだ「性交と恋愛にまつわるいくつかの物語」も同系統の作品集だった。こちらのほうも「ヒトとヒトがつながる」ことをめぐる欲望の目も眩むような多様さ、不思議さ、不気味さ、などなどについて、深く考えさせられる短編が並べられていた。やばい話が基本であるところも、「君が代は千代に八千代に」と同じ。

しかし、どちらの本においても収録作品のそれぞれは、遠い星で繰り広げられる「お伽話」か、あるいはちょっと皮肉な「現代寓話」の類にしか思えない。もちろん「喜劇」のようでもある。

源一郎先生がデビューされてしばらくの間、人々は口を揃えて「『さようなら、ギャングたち』は素晴らしい」といった。だが、へそ曲がりの青年は(オレも青年だったのだ!!)、そうは思わず、「『ジョン・レノン対火星人』のほうが、ずっとずっとステキではないか」と呟いていた。

源一郎先生の長年のファンとして、先生が活躍されている幅広いジャンルについて、こちらの好みを勝手に順番づけさせていただくと、どうやら次のようになりそうだ。

  1. 競馬エッセー
  2. その他もろもろのエッセー
  3. 評論や書評.
  4. 短編小説
  5. 長編小説

評論集「ニッポンの小説」だったかな、その冒頭にコロンビア大学で行った源一郎先生の講演録が載っている。そこで先生は、「自分は良い作家になれない」というようなことを喋っていた(と思う。偉大な作家になれないだったかも。手もとに本がない)。

確かに先生には、「クリエーター=創造主」としての強靭さに欠けるところがある。自分の作品世界にのめり込むときに多くの小説家が示す「忘我の表情」を決して見せない。それって恥ずかしいじゃないか。小説=世界を支配する暴君って気持ち悪いよ。先生の作品からは、絶えずそんなふうな呟きが聞こえてくる。要するに、悲しいほどに批評的なのだ。

そんな事情からなのか、源一郎先生の小説、とりわけ長編作品は複雑ならざるを得ない。本文と注釈が交錯し、事物と比喩がその位置を変える。ときには大きく360度回転して元の位置に戻ったりして、混乱を極める。記述それ自体の相互参照が連続し、自己言及の流れがクネクネと絡む。だが、何となく静的な印象があり、ダイナミズムを欠くようにも感じる。
実験的な面白さはあるけれど、「物語」を受容するという観点からすると、相当に疲れる。要するに、先生の長編小説は(「オレ的」にいえば)、面白くないのだ。

これに対して、短編のほうはずっと楽しい。透き通るように平明な文章をテンポよく読んでいくと、何だか奇妙なスナップ写真を眺めているような、あるいは不思議なことばが連なった小さな詩集をこっそりと盗み読んでいるような、そんな楽しさを味わうことができる。

何年も前のこと。オレも我が同居人も、ともに競馬狂だった頃、清々しい涼風が吹き抜ける夏の札幌競馬場・B指定席で源一郎先生とたまたま隣り合わせになったことを思い出した(ご夫妻で。いまは、とっくにお別れになっているけれど)。
一言、二言、ことばを交わした記憶がある。ただし、「あの馬の体重の増減、知ってる?」といった程度のやり取り以外、話すことはなかった。「小説家の源一郎先生ですよね」などといった野暮なセリフなど、発することさえ忘れていた。いうまでもなく、鉄火場におけるギャンブラーは、互いに「あんたの職業なんですか?」などと喋らないからだ。

でも、いま思うと、握りしめていた「ホースニュース・馬 -wikipedia」に赤ペンでサインしてもらえばよかったかなあ・・・・・「週刊文春」連載のコラム「おじさんは白馬に乗って」を読みながら、ギャンブルの世界から追放された人間は軽い後悔の念に駆られるのだ。

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2009-02-27

逝きし世の面影、前近代の幸福と不幸な近代

この本を読むことになったきっかけは、「文藝春秋」か何かの雑誌を立ち読みしていて、あのミスター円、「榊原英資 - Wikipedia」先生が、「私が選ぶ1冊」として推薦していたからだ。なぜか、その短い推薦文は心に残った。

江戸文化を抹殺する格好で開始された明治以降の近代化。それって、この本で描き出された「微笑みに満ちた美しい文明」を壊し続けただけじゃないの? この国の近代化って、何のためだった? 誰のためだった? 榊原先生は、そんなふうに嘆息を漏らしていた。

読み終えて、私も似たような溜息を吐いた。フゥー。

江戸末期から明治初期に日本を訪れた西欧人たちの目に映ったこの国のかたち。著者の「渡辺京二 - Wikipedia」先生は、彼らが残した大量の史料から意図的に「逝きし世=江戸文明」を称える箇所を抜き出し、アンダーラインを引き続ける。
近代化は、ほんとうにこの国を幸せにしたのか。こんなに素晴らしい文明を滅ぼしてまで、何を創り出したというのか。渡辺先生の問いは執拗だ。

輝くばかりに美しい農村の風景。飢餓や貧困といったイメージを裏切る農村や都市の豊かさ。穏やかに微笑む幸せそうな人々。気高く、それでいてユーモアのセンスに優れ、茶目っ気たっぷりの武士や庶民たち。美しく可愛らしい女性たち。子どもや動物に注がれる優しい愛情。元気で好奇心に満ち、しかも躾の行き届いた子どもたち。ヒトを怖がらない犬や野鳥。江戸という庭園都市の特異な素晴らしさ・・・・・・

幸せに生きるということはどういうことなのか? この本にヒントがあるとすれば、たとえば、次のような幸福の条件を考えたりもする。

  • 環境中心主義-何よりも豊かで美しい自然環境に生きること。
  • 反=人間中心主義-人間中心主義という偏った視線にとらわれずに生きること。
  • 反=個人主義-個人という概念を知らず、個人の内面という檻から自由であること。

江戸の文明を典型とする前近代の文明は、「多産多死」型の社会構成の上に築かれていた。たくさん死ぬけれど、その分をせっせと補充する社会。ヒトもまた、野生の動植物の生態と基本的に変わらない生のあり方を繰り返していたのだ。
医療システムなどほとんど不在であり、それゆえに短命が基本である社会では、長寿を支える福祉システムなど基本的に不要だ。
ヒトは群生する魚・鳥・獣のように、「群=類」としての生命を慈しみ、「個」としての不安を軽んじて生きるしかない。自然環境に包まれ、生き物すべてと交感しながら、群=類の一部として、あっけらかんに生まれ、あっけらかんと死ぬのである。

近代に至って、ヒトはあっけらかんな生を見失った。死を前提に、死それ自体を織り込んだシンプルな生は、死を恐れ、死に抗い続ける複雑な生に置き換えられることになる。
それと引き換えに、ヒトは確固たる幸福感も失ってしまった。「群=類」を見失い、「個」として自立することになったヒトは、一方で長寿=引き伸ばされた人生に漠たる不安を感じざるを得ない。
喪失と不安。それらが投影されるスクリーンとしての「内面」の成立。幸せじゃないなあ、オレって・・・・・・と呟きながら、近代に生きるヒトは心の内側をサーチし続ける。

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2009-02-20

できそこないの男たち、詩を奏でる科学者の誕生

誰もが知っている理科的知識。だが、この分子生物学者の手にかかると、途方もなく「楽しい何か」に変じてしまう。
ましてや科学の基礎・基本を欠く身には、一章ごと、一段落ごとに「ヘェー、ハァー」と感心しきりで、ポテトチップスを摘む左手の動きも止まってしまうほどの面白さである。

読み進むにつれて、これまで経験したことのない不思議な「詩情」に包まれていることに気づき、脈絡もなく「楽しい何か」とはこれなのか、と納得したりもする。

不思議な逸話があり、歴史の皮肉としかいいようのないエピソードが列挙される。胸ときめくスリリングなスキャンダルと隣り合わせに、研究者たちを突き動かす野望が配置され、その反対側にラボとアパートを行き来するだけの無名の若き研究者たちの疲れ切った日々が描き出される・・・・・生物学=科学の向こうに広がる壮大にして精妙なポエジー。「生命=生きること」が醸し出す不思議で感動的な情景が広がり始める。

前作「物と無生物のあいだ」にあって、福岡先生は自らの表現が過度に詩的=文学的なものへと流れてしまうのを嫌い、筆使いを抑制していたようだ。しかし、この「できそこないの男たち」では、全開とはいかずとも、相当にアクセルを踏み込んでいる感じがする。

科学の向こうに蜃気楼のように現出する大いなる詩の情景。「生命=生きること」の詩情。壮大な夢の中を探検しているような高揚感の源泉は、ここに由来する。

「詩人=哲学者」とはよく知られているが、「詩人=科学者」というのは聞いたことがない。おそらく、そうしたカテゴリーで括られるべき表現者は多数存在するはず。だが、この国の現在において、そうした種類の表現者を挙げよといわれれば、迷うことなく「福岡伸一」と答えるべきなのだろうと思う。

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2009-02-06

アメリカと世界恐慌2.0、読み終えた新書とか

読み終えた(と記憶している)新書など。手許にあるものとないものがある。ないものについては、落ちているかもしれない。

まずは、猿谷要「物語 アメリカの歴史」。資料を作成する際に「リファレンス」として使った。手ごろなクラシック本というべき。

次に町山智裕「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」。この本を構成するコラムの数々は、話のネタとして最高に役立った。

ものは次いでだとばかりに、越智道雄・町山智裕「オバマ・ショック」にも目を通した。アメリカを硬軟両面から論じて飽きさせない。深層のアメリカ、表層のアメリカ。アメリカ通になった気分になる。

世界恐慌2.0。暗雲立ちこめる世界同時不況。本屋の店頭には、おどろおどろしい表紙の「金融恐慌本」が平積みされている。でも、ここは冷静に水野和夫「金融大崩壊」を読む。
あわてて書かれた「恐慌本」のなかでは、(立ち読みの印象でいえば)例外的に視点が大きく、歴史的に問題を捉えているように感じる。

以前に読んだ同じ著者の「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか」のサブセットのようでもあり、論旨の詳細をばっさり切り捨てている分、素人にはすっきりと分かりやすい。「サブセット、万歳!!」なのだ。

次に小幡績「すべての経済はバブルに通じる」。バブル・メカニズムの本質を「資本主義=ねずみ講」論に求めるあたり、何ともスマート。根拠なき熱狂とその崩壊の道筋を語る乾いた口ぶりには、著者自身が「投資家」であることも影響しているのかもしれない。

金融危機を論じた金子勝「塞経済」とか本山美彦「金融権力」などに対して、失礼ながらいまいち的を外している印象をもってしまうのは、金子先生も本山先生もマーケットの「汚らしいリアル」とはほど遠いところで「論」を張っておられるからかもしれない。

そもそもリベラル左派の知性に「カネ」は似合わない。似合わないもの、知らないものを論じて「リアリティ」を担保するのは至難の業である。

最後に高橋洋一「この金融政策が日本経済を救う」。「上げ潮派」の理論家による強烈な日銀批判。政治問題化している「埋蔵金問題」とか「政府紙幣の発行」などにも言及していて面白い。
高橋先生の主張通りに、日銀がジャブジャブと通貨量を増やすと、スルスルと景気回復につながるのかというと、それはどうなんだろ? こちらには判断する知識もないけど・・・・・でも、そういわれると「そうなのかなあ」と思ってしまうのが、本というメディアの面白いところ。

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